母なる富士川(3)中沢毅一、研究に道 「天恵の宝庫」保護訴え
富士川の流水が駿河湾に注ぎ、サクラエビを育てる-。生態について今以上に謎が多かった昭和初期、“母なる富士川”にいち早く着目したのが、サクラエビ研究の先駆者とされる生物学者の中沢毅一(1883~1940年)だった。
農商務省水産講習所(現東京海洋大)の技師としてサクラエビ調査に携わった。漁師に寄り添い不漁の原因を調べようと28年、蒲原町(当時)の海岸に私設の「駿河湾水産生物研究所」を開所した。
ただ、大学で教べんを執るため、開所からわずか7年で拠点を都内に移転。その後、研究所は売却されて姿を消した。だが、その足跡は今も地元住民の言葉から垣間見える。
「当時は珍しい洋風の建物の中に魚の標本がずらりと並び、幼心に立派な先生だと感じた」。蒲原学園幼稚園職員の田辺洋二さん(81)=静岡市清水区蒲原中=は振り返る。サクラエビが記録的不漁の今こそ、業績を見直すべきと強調する。
中沢の研究テーマの一つが、サクラエビが富士川河口沖で多く取れる理由だった。
「狭い一定の海湾から、あれだけ澤山(たくさん)の櫻蝦(サクラエビ)が出来るのは、その海水中に非常に多量のエビの甲殻を造るカルシュームを必要とするわけだ。それは富士川の河川に含まれてゐ(い)る」。中沢をしのび没後に長男道夫により編集された書籍「中沢毅一追憶」には、日頃周囲に語っていたという持論が載っている。
また、漁獲と降雨による富士川の増水の関係を指摘した生前の論文「櫻蝦調査第二回報告」では、「エビの蕃殖(はんしょく)及び成長には河川から流れて来た有機物質と土砂が海底に堆積することが必要」と述べている。
サクラエビの生態は解明されておらず、中沢の主張の検証は十分にはされていない。ただ、東海大の久保田正名誉教授(80)は「サクラエビ研究の道を切り開き、環境と人間の共生関係の礎を築いた人物」と表現する。
中沢は富士川流域の立木乱伐による水質変化を憂い、漁場回復のための築磯を主張した。
漁師の依頼で行った不漁の原因調査では、製紙工場の汚水の悪影響を指摘。漁業関係者の公害対策を後押しした。この逸話について、孫で人類学者の中沢新一さん(68)は「正義漢だった祖父の“英雄伝説”として家族で語り継がれている」と明かす。山梨県の実家には中沢の死後も毎年、蒲原の漁師からサクラエビが届いた。
蒲原生活は短かったが、サクラエビ研究に心血を注いだ中沢。駿河湾を「天恵の宝庫」とたたえ、サクラエビを天然記念物にすべきと提案し、こう訴えた。
「永久にこのサクラエビが、駿河湾特産の動物であるように保護することを欲する」
(「サクラエビ異変」取材班)