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技術と水 戦いの100年 丹那由来「水抜き」鉄則【大井川とリニア 第4章 山岳トンネルの宿命①】

 リニア中央新幹線の南アルプストンネルの建設は「日本の屋根」を貫き、坑内で高圧大量の湧水発生が懸念される難工事だ。時に作業員を危険にさらし、掘削の“邪魔者”となる水は、流域の生活生業を支える“命の水”でもある。本当に水源を守り、掘り進めることができるのか。日本のトンネル技術者と水との戦いが始まった100年前の東海道線丹那トンネル(熱海―函南間)工事にさかのぼり、トンネル技術の進歩と限界を探った。

丹那トンネル
丹那トンネル
丹那トンネルに掘られた水抜き坑の図。断層付近に網の目のように広がっている。
丹那トンネルに掘られた水抜き坑の図。断層付近に網の目のように広がっている。
トンネル内で掘削後に水を抜く様子の写真(いずれも「丹那トンネルの話」より)
トンネル内で掘削後に水を抜く様子の写真(いずれも「丹那トンネルの話」より)
湧水が豊富だったころの丹那盆地の様子を語る山田幸雄さん=11月下旬、函南町丹那の渇水記念碑前
湧水が豊富だったころの丹那盆地の様子を語る山田幸雄さん=11月下旬、函南町丹那の渇水記念碑前
丹那トンネル
丹那トンネルに掘られた水抜き坑の図。断層付近に網の目のように広がっている。
トンネル内で掘削後に水を抜く様子の写真(いずれも「丹那トンネルの話」より)
湧水が豊富だったころの丹那盆地の様子を語る山田幸雄さん=11月下旬、函南町丹那の渇水記念碑前

 「同じ箇所を掘っても掘っても崩され、まる1年、1歩も進まなかった」
 1918年に始まった丹那トンネルの工事は16年間に及び、67人もの作業員が犠牲になった。旧鉄道省熱海建設事務所が33年に発行した「丹那トンネルの話」に苦難の状況が記されている。「地中の工事で相手は何だと一口に言えば、水と土の連合軍」。掘削は水との戦いの連続だった。
 暗中模索しながら、セメントを注入して地盤を固めたり、トンネル先端の気圧を高めたりしてさまざまな方法を試みたトンネル技術者。その一つとして編み出されたのが「水抜き坑」だった。本来のトンネルと並行する方向に別のトンネルを掘って地中の水を出し切る。これにより高い水圧の水が出なくなり、本坑を掘り進められる。丹那方式とも呼ばれ、以降、ほかのトンネルでも多用された。
 「丹那トンネルの話」では、セメント注入と比べ「水を絞れるだけ絞って枯らす第二の方法を取るのが一番確かな方法」と水抜きの有効性を強調した。丹那トンネルの水抜き坑の総延長は、本坑の倍近い14キロに達し、芦ノ湖3杯分の大量の水を丹那の山から抜いたと伝わる。
 1世紀を経て掘削技術は進歩したが、技術の歴史に詳しい専門家の1人は「今でもトンネル工事は水を抜くのが鉄則だ」と明かす。
 JR東海は大井川の水源を貫くリニアの南アルプストンネル工事でも「水抜き」の必要があると説明している。これに対し、県有識者会議の塩坂邦雄委員は「地下にある天然のダムが破壊されるようなもの」と指摘。水を抑えて地盤を固める薬液注入という工法があるが、浅岡顕名古屋大名誉教授(地盤工学)は地下深くに掘るトンネルに適用するのは難しく「大井川水系の水資源を維持しながらトンネルを掘削する自信は全くない」と技術的な限界を吐露する。
 「丹那トンネルの話」は95年に復刻され、JR東海の須田寛会長(当時)は歴史的な意味と先人の労苦を振り返ることは意義深いと寄稿した。復刻を主導した元国鉄総裁の仁杉巌氏が工事を述懐したくだりは、南アルプストンネルを建設する技術者に向けられているかのようだ。
 「現代の新しいトンネル技術、環境問題、断層とトンネル等、現存する問題にも通ずるものがある」

 ■丹那盆地 重い教訓 豊富な湧水、奪った工事
 東海道線丹那トンネルの真上に広がる丹那盆地(函南町)。その入り口に立つ「渇水記念碑」には、こんな記述がある。「水利灌漑(かんがい)ノ天恵ヲ享(う)クルコト厚ク四隣ノ羨望(せんぼう)スル所」。かつての盆地には至る所から水が湧き、周囲がうらやむほど田畑を潤していた。
 「あの辺りに水車があって、ワサビ田もあった。生活に必要な水は全て小川の水で賄えた。だが、次第に枯れてしまった」。この地に生まれ育った山田幸雄さん(91)は、幼い頃の記憶を呼び起こしながらつぶやいた。
 伊豆半島ジオパーク推進協議会によると、丹那盆地は溶岩でできた水のしみこみやすい山に囲まれている。その山の地下水が盆地のへりに湧き出て、いくつもの沢をつくっていた。盆地の土壌は泥や粘土で水を涵養(かんよう)し、地下水位が非常に高かったという。
 そんな盆地に異変が表れたのは、トンネル工事が始まってから6年後の1924年ごろ。盆地の奥の沢から順に枯れ、田畑は干上がり、飲料水にも事欠くようになった。一方でトンネル内では、盆地に注がれるはずの大量の水が湧水として噴き出し、排出されていた。同協議会の朝日克彦専任研究員は「トンネル工事により、盆地の地下にたまっていた水の抜け道ができてしまったと考えられる」と指摘する。
 当時の住民は渇水の原因がトンネル工事にあると訴え、旧鉄道省に再三対策を求めた。山田さんの祖父、惣吉さんは住民の中心的な立場で交渉に当たっていた。「役人の反感を買ったのか、1週間ほど監獄に入れられたらしい。国に逆らえない時代だったが、必死だったと思う」と語る。
 鉄道省は当初、住民の訴えに半信半疑だったが、徐々に拡大する渇水被害を無視できなくなり、工事との因果関係を認めた。稲作を営んでいた多くの盆地の農家は、国からの補償金を原資に当時地域に根付き始めていた酪農に転換していった。国は水道、貯水施設の建設費なども支払ったが、盆地を潤した豊富な湧水が戻ることはなかった。
 丹那トンネル開通から87年余り。その間、地域の変化を目の当たりにしてきた山田さんは「水がどれだけ大切なものか。失ってからでは取り返しが付かないことを忘れないでほしい」と訴える。

 <メモ>東海道線丹那トンネル 長さ7.8キロ。世界的難工事として知られ、作業員67人の犠牲は崩落や湧水による水没などが原因。新たな工法も試みられた。坑内には今も大量の水が湧き、熱海の水道や函南の農業用水として使われている。一方、トンネルの上に位置する丹那盆地の水枯れ被害は回復していない。

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