先人の苦難、守る用水 乏しい水源 争いの歴史【大井川とリニア 序章 命の水譲れない㊦】

 大井川右岸の掛川、菊川両市には歴史的に水源が乏しく、住民は農業用水路やため池を築いて限られた水を分け合ってきた。昭和40年代に大井川用水が整備されて水の供給は飛躍的に安定したものの、近年でも少雨が続くと下流域に届かなくなることがあった。

大井川用水からの引水で水量が安定した嶺田用水。今も地域の住民が維持に努めている=7月下旬、菊川市嶺田
大井川用水からの引水で水量が安定した嶺田用水。今も地域の住民が維持に努めている=7月下旬、菊川市嶺田
大井川用水右岸の農業水利事業の概略図
大井川用水右岸の農業水利事業の概略図
大井川用水からの引水で水量が安定した嶺田用水。今も地域の住民が維持に努めている=7月下旬、菊川市嶺田
大井川用水右岸の農業水利事業の概略図

 用水網の末端域の掛川市山崎地区は、水が出にくくなるたび米農家が話し合い、地域ごとに取水時間を制限するなど苦心してきた。この10年ほどで設備が充実し、水が途切れる頻度は減ったが、地元NPO法人で農地保全に励む農家名倉光子さん(72)は「大井川の水が減ると真っ先に末端が影響を受ける」と嘆く。リニア中央新幹線建設に伴う大井川の流量減少の懸念が持ち上がり、県と事業主体のJR東海が対立している現状への不安も隠さない。
 この地域がなぜ水問題に敏感にならざるを得ないのか、至る所に残されている古文書や独特の慣習が示している。古文書を研究している菊川市の元教員北原勤さん(76)は「文書の内容は水に関連する記述が圧倒的に多い」と話す。
 「井水出入始終記録書」は江戸中期、加茂井水の水を巡って当時の加茂、本所、潮海寺の3村(現菊川市)が繰り広げた事件の記録だ。村人が見張りの番人を押さえてせきを壊した、庄屋を襲って水の流れを変えさせた-などの物騒な描写が書き込まれている。
 加茂井水は戦国時代に今川家臣だった三浦刑部が築いた用水路だ。菊川の水を3村にまたがって引き、大井川用水ができるまでは一帯の水田を支えた。ただ、水不足のたび、闇夜に紛れて流れを変える不法行為が頻発し、この地域には長年にわたって農家が夜通し水路を監視する夜警の役務が課されていたという。
 三浦刑部の子孫に当たる清水元喜さん(79)は「子どもの頃、夜警に出ていく農家の姿をよく目にした。地域にとって井水は命の水だった」と振り返る。
 同市の旧嶺田村に残る「嶺田文書」は、江戸時代に造られた嶺田用水の水利争いについて記録している。流域の村々の間で訴訟が絶えず、江戸評定所が裁定に乗り出したとの記述もある。
 地元では、今も農家が交代で水路を監視する慣習がある。地元歴史グループで郷土史を研究している森下春美さん(71)は「みんなで水を守ってきた。水への不安は、農業の担い手不足につながるとの危機感がある」と指摘した。(「大井川とリニア」取材班)

 <メモ>大井川右岸のため池 水源の乏しい掛川、菊川両市には雨水や川の水を農業用に蓄えるため池が315カ所あり、県内のため池の約半数を占めている。大井川用水の右岸域は農林省(現農林水産省)が1947年に事業化し、約25年間かけて両市や袋井市、御前崎市への水路網を整備した。多くのため池は今も重要な水源として活用されている。

いい茶0
あなたの静岡新聞 アプリ
地域再生大賞