車いすバスケ初のメダル 19年越しの夢に藤本(島田市出身)万感

 車いすバスケットボール男子決勝で日本は米国に惜敗した。王者を倒すまで、あと一歩だった。島田市出身の藤本怜央(37)=SUS=は試合後、「夢の中にいるようだった」と話した。頂点に届かなかった悔しさと、初めての表彰台から見た景色。その両方を胸にしまい、日の丸を19年背負ってきた男の「最終章」が終わった。

車いすバスケットボール男子決勝を終え、京谷監督(左)のねぎらいを受ける藤本怜央=5日午後、有明アリーナ(写真部・二神亨)
車いすバスケットボール男子決勝を終え、京谷監督(左)のねぎらいを受ける藤本怜央=5日午後、有明アリーナ(写真部・二神亨)


 島田神座小3年の時、自転車でダンプカーと衝突し、右膝下を失った。車いすバスケとの出合いは高校3年時に見た全国障害者スポーツ大会。圧倒的なスピード感に目を奪われた。
 わずか2年で日本代表入りした。大黒柱を長く担ってきたが、パラリンピックには4度出場して7位が最高。自国開催のパラでメダルを取るために、「バスケを楽しむことをやめた」
 きっかけは2012年ロンドン大会。負け試合が続いた後のスタジアムの出口で、父泰年さん(63)=島田市=が待っていた。「負けてニヤニヤするな。お父さんは観光に来てるんじゃない」「この場に立ちたくても立てない選手がいる。代表の重みを考えろ」
 幼い頃から父は藤本にとって「一番のサポーター」だった。事故に遭った時は、かけずり回って義足を探してきてくれた。いつものように「頑張ったな」と言ってくれるはずだった父の言葉はずしりと響いた。
 14年以降、毎年秋から春まではドイツリーグでプレーするようになった。屈強な相手としのぎを削った。「代表の自覚と覚悟と誇り。それを考えるだけでエネルギーが湧いてきた」。メダルのためなら何でも受け入れた。自分の出番が減っても、若手の台頭を心から喜んだ。
 メダル確定を懸けた準決勝英国戦の最終クオーター。コートの外から必死に叫び、若手を鼓舞するベテランの姿があった。「自分のずっと思い描いてきたものが形になる瞬間だった」。終了のブザーが鳴る前から涙があふれ出た。
 「パラリンピックは特別な場所。報われる人は一握りで、ほとんどの人は苦しい思いだけする場所だと思っていた」。19年越しの夢がかなった。決勝は「幸せな40分間だった」

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