震災時の流言「罪軽からず」 静岡県内にも不安拡散 富士宮に体験記【伝える 関東大震災100年と静岡①】

 10万5千人余りの死者・行方不明者を出した関東大震災から間もなく100年。建物倒壊や火災などの甚大な被害とともに東京や横浜では朝鮮人らが虐殺された。そのきっかけとなった「朝鮮人が暴動を起こす」などの流言(りゅうげん)が静岡県内にも伝わっていた様子が分かる体験記が、富士宮市に残っている。関係者は「流言によって人々が不安や混乱に陥る様子が詳細に書かれ、現在の災害にも通じる貴重な資料」と強調する。

「朝鮮人の暴動」に関する流言の記述(赤線の部分)
「朝鮮人の暴動」に関する流言の記述(赤線の部分)
河井清方の「大地震の記」が集録されている日誌
河井清方の「大地震の記」が集録されている日誌
河井清方の「大地震の記」の内容を説明する松本将太さん=8月中旬、富士宮市
河井清方の「大地震の記」の内容を説明する松本将太さん=8月中旬、富士宮市
「朝鮮人の暴動」に関する流言の記述(赤線の部分)
河井清方の「大地震の記」が集録されている日誌
河井清方の「大地震の記」の内容を説明する松本将太さん=8月中旬、富士宮市

 「不逞(ふてい)鮮人共産主義者(原文まま)襲来して暴虐をなす旨の風説あり…(省略)流説蜚語(ひご)大いに衆人を惑わす」(9月3日)
 体験記は1861年生まれで、当時の大宮町(現富士宮市)に住む河井清方が普段からつづっていた日記の一部。「大地震の記」と題し、1923年9月1日から12月31日までの日記をまとめている。市や親族によると、河井は教員や浅間大社の神職を務め、関東大震災が発生した当時は62歳だった。孫の河井孝三さん(故人)の妻美喜さん(96)=同市=は「とてもまめで絵や文字を書くのが好きな人だった」と孝三さんからよく聞いたという。2019年10月、「歴史の資料として役立ててほしい」と親族で話し合い、100点以上の日記や絵とともに市に寄贈した。
 市文化課市史編さん室の学芸員松本将太さん(35)によると、流言に関する記述は発災当日の1日から見られる。当初は被害状況に関する内容が多く、3日以降は朝鮮人の暴動や災害が再来するとのうわさも広まっていったという。
 4日と8日の大きな余震の後に流言が拡散しやすかった様子も読み取れる。再び強震があるとの風説が流れ「人々不安に消光し家屋内に入ることを避けて天幕にある者少なからず」(4日)と生活にも影響を与えた。8日は<朝鮮人と青年団が闘争している>、<富士山が噴火する>などのうわさが住民を惑わした。
 2011年の東日本大震災では、外国人の窃盗団や石油コンビナート爆発による有害物質発生などの流言が人々の不安をあおった。100年前と違うのは誤情報の拡散速度だ。現在はSNSで瞬時に拡散される。昨秋の台風15号に伴う豪雨では人工知能(AI)で生成した偽物の被害画像が投稿された。SNS上の誤情報は、被災地とは関係のない第三者が興味本位で拡散している場合もある。
 東京大大学院の関谷直也准教授(災害情報論)は災害後の流言について「不安や怒りの感情を多くの人が共有するため広がりやすくなる」と説明する。その上で「SNSは感情や思ったことを発信するツールで、必ずしも正しい情報のやり取りをしているわけではない」と指摘。「『流言は智者に止まる』との中国のことわざがあるように、災害後は流言が生まれるものと理解し、不確かな情報は広めないことが重要だ」と呼びかける。
 「流言を放つの罪軽からず 之を信ずるもの実に愚の至りなり」(9月19日)。河井の日記もまた、流言に向き合う姿勢の在り方を問いかけている。
 関東大震災で本県は県東部や伊豆半島を中心に建物倒壊や津波で400人以上の犠牲者が出た。当時の被害が伝える教訓とは。体験記や関係者の話から学ぶ。

 <メモ>1923年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源とするマグニチュード(M)7.9の地震が発生した。1924年の「静岡県大正震災誌」によると、県内の死者・行方不明者は443人、建物被害は1万3183件に上った。富士宮市の被害については詳細な記述がなく、比較的小さかったとみられる。県内でも流言による朝鮮人への迫害や暴行を防ぐため、県警が各署に収容所を設け、関東から避難したり失業したりした朝鮮人を保護した。職業もあっせんし、「関東で起きたような不祥事は発生しなかった」との記録が残っている。

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