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お田鶴の方(おたづのかた)ってどんな人? 築山殿の「いとこ」 亡き夫に代わり引間城を守り、家康に攻められ壮絶な討死

椿姫観音堂にまつられている木像
椿姫観音堂にまつられている木像

お田鶴の方の生涯
 天文年間(1532〜55年)の生まれとみられる。父は今川家の重臣で、上ノ郷城(かみのごうじょう、現在の愛知県蒲郡市)城主の鵜殿長持(うどの ながもち)。母は今川義元の妹。
 同じく今川家の重臣で、引間(引馬、ひくま)城主だった飯尾豊前守(いのおぶぜんのかみ)に嫁いだとされる。血縁の有無は不明だが、系図上は徳川家康の正室・築山殿のいとこに当たる。
 浜松市内には、謀反の疑いで今川氏真に殺害された夫に代わって引間城を守り、遠州侵攻を目指す徳川家康に攻め込まれて討ち死にしたとする伝承が残っている。一方、夫とともに駿河で殺害されたとする史料もあり、不明点も多い。
 浜松市中区の元浜町自治会に残る伝承によると、引間城を守っていたお田鶴の方は、家康に帰順を求められたが受け入れず、侍女18人とともに戦って討ち死にした。純白のはちまきと緋色(ひいろ)のよろいをまとい、なぎなたを手にした壮絶な最期だったという。
 家康はお田鶴の方らのために塚を築き、手厚く葬った。築山殿はその死を悼み、葬られた塚にツバキの花100株を植えたという。毎年美しい花を咲かせて「椿塚」と呼ばれるようになり、「椿姫観音堂」の名前の由来となった。
お田鶴の方が守った引馬城 跡地の元城町東照宮(浜松市中区元城町)は“出世神社”に
photo01 元城町東照宮に立つ徳川家康公と豊臣秀吉公の像
 築城時の様子は不明だが、15世紀ごろに戦国武将たちが遠江支配の拠点とした城とされる。16世紀初めにかけて駿河国守護の今川氏が遠江に侵攻し、遠江国守護の斯波氏と抗争の末、永正14(1517)年に引馬城を落とした。遠江を支配下に置いた今川氏は、重臣の飯尾氏を引間城主とした。飯尾氏は数代にわたり城主を務めた。
 お田鶴の方の夫で引間城主だった飯尾豊前守は、三河の松平家康(徳川家康)との内通を疑われて永禄8(1565)年、今川氏真に殺害された。その後は、お田鶴の方が城を守ったとする史料がある。永禄11(1568)年、遠江支配を目指す徳川家康に攻め込まれて落城した。家康は引間城を取り込む形で、城を大規模に西側に拡張、改築した。馬を引くという名前が敗戦を連想させるとして名前も変え、浜松城を築いて居城とした。
 家康以降の城主の時代に浜松城は増改築を繰り返し、引間城は城の主要部から外れて米蔵などとして利用された。明治時代、旧幕臣の井上延陵が引間城の本丸跡に家康をまつる元城町東照宮を創建した。
 引間城は豊臣秀吉が武家奉公の夢をかなえた地としても知られる。家康入城のおよそ20年前、当時16歳だったとされる秀吉は、引間城下で頭陀寺城(ずだじじょう、現在の浜松市南区)城主の松下之綱に出会った。秀吉はその場で松下に仕えることとなり、引間城に同行した。松下の紹介で、引間城の宴会で猿のものまねをし、場を盛り上げた。
 秀吉、家康という2人の天下人がそれぞれ足掛かりとした引跡城の跡地に建つ元城町東照宮は現在“出世神社”と呼ばれ、多くの参拝者が訪れている。
お田鶴の方まつる椿姫観音堂
photo01 市街地の一角にある椿姫観音堂=浜松市中区元浜町
 家康がお田鶴の方らを葬ったとされる塚は区画整理のため当時の位置より5メートルほど南東の現在地に移り、1944年に地元住民らにより「椿姫観音堂」が建立された。現在は住宅や商店が並ぶ市街地の一角に、広さ10平方メートルほどの観音堂がひっそりとたたずむ。木像をおまつりするお堂、祈願石、鈴などがあり、毎年秋には元浜町自治会により追悼供養が行われている。
(浜松市文化財課と元浜町自治会への取材を元に作成)

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