第四章 骨肉の争い(65)【頼朝 陰の如く、雷霆の如し】

二月に入って、重大な情報が京都守護から鎌倉の頼朝[よりとも]へもたらされた。義経[よしつね]が伊勢国から美濃国経由で奥州に向かったというのだ。
(秀衡[ひでひら]を頼るのだな。最終的に行き場はそこしかあるまいと思っていたが、やはりそうなったか)
義経一行は、山伏や稚児姿に扮[ふん]し、女子供も紛れているという。
(女子供……妻子と一緒ということか)
書状には、女子供の名まで記されていなかった。それが誰であるのか、今の段階では頼朝には分からない。女だけなら、都に戻った静[しずか]御前と再会を果たしたとも考えられるが、子がいるのなら別の女だろう。
権力者となった頼朝を目の前にして、義経への愛を命懸けで唄い上げた静御前。敵の巣窟・鎌倉での出産を強要され、たった数刻抱いただけの愛[いと]し子を取り上げられる運命に耐えた。今頃どんな気持ちでいるのだろうか。
(残酷な現実だな)
だが、義経に付いていった女にも未来はない。それこそ文字通り、地の果てまで追いつめ、親子諸共屠[ほふ]るつもりだ。
(女は郷[さと]御前か)
静御前への尋問の際に疑ったように、義経の都落ちの時期、郷御前は身ごもっていたに違いない。
産まれた子が女であろうと男であろうと、今度は一切、助ける気はない。
(ここまで手こずらせたのだ。向こうも覚悟の上だろう)
去年は義経の噂に[うわさ]さんざん振り回された。
だが、九月下旬に義経の郎党・堀景光[かげみつ]が捕縛されてから、状況が大きく動いた。「義経が南都の興福寺に匿[かくま]われていたこと」と、「後白河[ごしらかわ]法皇の側近、藤原範季[のりすえ]が逃亡を手助けしていたこと」を、景光が吐いたからだ。
景光が捕まった二日後には、密告があって義経の片腕の一人、佐藤忠信[ただのぶ]も見つかった。忠信は鎌倉方の武士に取り囲まれ、「今はここまで」と自害して果てた。
この男は、義経が奥州を去った時に、藤原秀衡が特に選んで兄の継信[つぐのぶ]と共に護衛に付けた従者である。常に義経に付き従っていたが、兄の継信は屋島の戦いで戦死した。
頼朝は、佐藤兄弟が秀衡の命で鎌倉の様子を探り伝える密偵役も担っているのではないかと疑い、常に警戒した。このため、義経を鎌倉の内政に関わらせることができず、心理的にも物理的にも遠ざけてしまった。もしかしたら、佐藤兄弟の存在がなければ、義経の背後に奥州を意識することなく、もっと違った関係が築けたかもしれない。
(秋山香乃/山田ケンジ・画)