第四章 骨肉の争い(59)【頼朝 陰の如く、雷霆の如し】

義経[よしつね]に関しても全く進展がなかったわけではない。七月には、片腕の一人、家人伊勢義盛[よしもり]を仕留めた。そして今月、義経の小舎人童[こどねりわらわ](雑用係の少年)を捕え、最近まで確かに比叡山に隠れていたことを白状させた。
もっともすでに義経は下山し、その後の行き先は知らぬという。それでも比叡山の中の誰が匿[かくま]ったのか、噂ではなくはっきり分かっただけでも進歩であった。俊章[しゅんしょう]・承意[じょうい]・仲教[ちゅうきょう]ら悪僧だという。
事に当たった京都守護の一条能保[よしやす](頼朝[よりとも]の同母妹・坊門[ぼうもん]姫の夫)は、貴族的な政治感覚ですぐに三人を捕縛せず、まずは天台座主と執政九条兼実[かねざね]の同母弟・殿法印慈円[とののほういんじえん]に相談の形を取って比叡山の関与を伝え、後白河[ごしらかわ]法皇にも知らせた。
比叡山側は、三人の僧は逃げたと返答した。京都守護前任の北条時政[ときまさ]は、能保のやり方を手緩[てぬる]いと憤慨し、
「吾[われ]ならとっくに予州を捕まえておりますぞ」
豪語した。
その言葉を聞くだに、京都守護を入れ替えて良かったと頼朝は密かに胸を撫[な]でおろした。平家を討ち取った直後の混乱期には荒事も辞さない時政を充てたが、少し世が落ち着いてからは朝廷に詳しい能保の方が、京都守護に適している。
それにしても、と頼朝の中で疑惑が頭をもたげる。
(これだけ探しても見つからぬのは、やはり後白河法皇が九郎の逃亡に手を貸しているからではないのか)
朝廷は、義経の名前が摂関家の者と重なるからという理由で、「義行[よしゆき]」と変えさせた。こういう態度を見れば、逆賊として忌み嫌っているようにも見えるが、都周辺に気配を残しつつ、あまりに上手[うま]く逃げ延びている。
それに、郷[さと]御前も見つからない。
こちらは義経の母と妹を捕え、尋問したことで岩倉に潜んでいたことが知れた。さっそく庵[いおり]に踏み込んだが、その時には誰も居ず、人が暮らしていた形跡も消されていたという。
常盤[ときわ]御前の庇護で岩倉の庵に姿を隠していたはずが、今は誰が匿っているというのか。郷御前には、都近隣に知り合いなどいないはずだ。
(岩倉を出た後の潜伏先など、自力で探せるはずもあるまい)
ならば、こちらが踏み込む前に夫・義経と合流したと考えるのが自然ではないのか。
夫婦の逃亡に手を貸す強大な力を有した者がいるはずなのだ。
(秋山香乃・作/山田ケンジ・画)