第四章 骨肉の争い(55)【頼朝 陰の如く、雷霆の如し】

「ああっ」
と龍[たつ]姫が小さく叫んだ。その声にハッと朝日[あさひ]御前の心も、現実に揺り戻された。龍姫の目が、きらりと輝くのが、振り向いた朝日御前の目に映る。
今では後白河[ごしらかわ]法皇でさえ顔色を窺[うかが]うようになった「鎌倉殿」に、静[しずか]御前が堂々と逆らってみせたのだ。
この場で見事に舞えば、産まれてくる子が女なら、母子共々命を助けると約束されていた。ならば、頼朝[よりとも]に気に入られる舞いを披露するのが常だろう。それを、静御前は、頼朝の世を真っ向から否定し、義経[よしつね]の世を願う歌を毅然[きぜん]と唄[うた]ってのけた。
昔を今に
なすよしもがな
静御前が繰り返す。胸元からスッと天に両手で差し上げた緋[ひ]の扇が、まるで噴き上がった血のようで、誰もが息を呑[の]み、目を見開く。
この時、晴れ渡った空で雷鳴が轟[とどろ]いた。
静御前の舞いは終わったが、場はしんっと静まり返り、誰一人微動だにできない。
最初に動いたのは朝日御前だ。真横から殺気を覚え、ゆっくりと首を右へ向けた。頼朝が蒼白[そうはく]な顔で、射貫くような怒りの目を静御前に向けている。こんなに怖い顔の頼朝を見たのは初めてだった。
(静御前は殺される)
朝日御前が取りなそうとする前に、
「八幡大菩薩[ぼさつ]の御前で、反逆者を恋[こ]うるとはなんたる無礼」
地の底から響くような声で、頼朝が怒号した。今にも御簾[みす]を跳ね上げ、静御前を殺しそうな勢いで中腰になった夫を、朝日御前の手が止めた。
「あれが、女の心でございます」
「何だと」
「もし、私が今の静と同じ立場なら、どれほどの御方の御前であろうと、君を慕う心を唄います。当たり前のことではございませぬか。君の下された愛を忘れ、権力者を称[たた]える歌を口にできましょうか」
「御台[みだい]……」
「覚えておられますか。その昔、父は時の権力者である清盛[きよもり]の目を恐れ、君を愛した私を館に閉じ込めました。けれど、私は嵐の夜に、ただ一心に三郎様を求め、親兄弟を捨てて走ったのです。君が石橋山で戦った際も、この世の全てと引き換えにしてもよいほどに、恋慕っておりました。今の静と同じ気持ちです。その気持ちをお咎[とが]めになりますか」
(秋山香乃/山田ケンジ・画)