第四章 骨肉の争い(52)【頼朝 陰の如く、雷霆の如し】

静[しずか]御前が針の筵[むしろ]に座る思いで、頼朝[よりとも]の前で舞いを披露しているちょうどその時、郷[さと]御前は赤子を抱き上げ、乳を含ませていた。
これから先、いったいどうなるのかまったく分からない。すぐにも追手が踏み込んできて、自分たちを捕えるのではないかという不安に、毎日苛[さいな]まれている。郷御前の豊かだった髪は薄くなり、滑らかだった肌も荒れ、艶[つや]やかな唇はかさついていた。
夫、義経[よしつね]は今のところ上手[うま]く逃げ切っていると、数日前に届いた義母常盤[ときわ]御前からの文に書いてあった。
今、住んでいるこの岩倉の庵[いおり]は、常盤御前が用意してくれたものだ。だが、ここもなるべく早く出た方が良いと記されていた。
「私も取り調べられるかもしれません。しばらく身を隠すつもりです」
と常盤御前は言う。続けて次のように書いてあった。
「今までは、私が一条大蔵卿(長成[ながなり])の妻であることを鎌倉方も配慮して、捜索の手が緩うございましたが、あまりに九郎の行方が分からぬゆえ、今後は取り調べがきつくなりそうです。岩倉にも手が回るでしょう」
それで次に移り住める場所を、郷御前に今も仕えてくれている女房と守役[もりやく]が、慌てて探しているが一向に見つからない。早く逃げ出したいが、行く場所も無いまま闇雲に飛び出すわけにもいかない。
郷御前は、焦る気持ちや叫びたくなるような恐怖心を、何も知らずに泣いたり笑ったりするわが子の姿を眺めることで、どうにか抑え込んでいた。
乳を飲んで満足したのか、赤子がうとうとし始めた。夫に相談せぬまま名を決めるのも悪いからと、まだ正式な名を付けていない。ただ、最初に産まれた子なので、便宜上「初[はつ]姫」と呼んでいた。
「お腹[なか]いっぱいになりましたか。さあさあ、初姫、母が背をさすって差し上げましょう」
郷御前は赤子に優しく話しかけ、胸に抱いて背を下から上へさすった。やがて、「けふんっ」と初姫の小さな唇から空気が漏れる。それだけで郷御前の目尻が下がる。
「ああ、愛おしい。なんて可愛[かわい]いの」
そうつぶやいた時、庵の外から荒々しい足音が複数、聞こえた。
えっ、と郷御前の全身が緊張した。
とうとうその時が来た、と覚悟する。今、この庵の中には自分と初姫しかいない。無報酬のまま仕え続けてくれた守役と女房が外に出ている時で良かったと、郷御前は思った。
(あなたたちだけでも、どうか無事に逃げて)
(秋山香乃・作/山田ケンジ・画)