第四章 骨肉の争い(50)【頼朝 陰の如く、雷霆の如し】

頼朝[よりとも]の顔に、一瞬、動揺が走ったのを、朝日[あさひ]御前は見逃さなかった。だが、口にした言葉は冷淡だ。
「それはできぬな」
龍[たつ]姫の整った横顔に、絶望の色が浮かぶ。そんな娘を見つめる頼朝の瞳にも、苦悶[くもん]の色が澱[よど]んでいる。
頼朝は言葉を続ける。
「大姫よ、鎌倉に仇[あだ]なす者の血は残せぬ。禍根を次の世代に残せば、新たな争いを生み、人が死ぬ。赤子一人を殺すよりずっと多くの人が死ぬだろう。その中には、幾人もの赤子が含まれるのだぞ」
「それは……」
「人は、見知らぬ者の命なぞ、ただの数に過ぎなくなる。身近な者の死には悲嘆にくれようが、遠くで知らぬ誰かが十人死んでも、せいぜいが気の毒なことだと思うだけだ。されど、人の上に立つ者は、それでは駄目だ。死んでいった者たちの一人一人に、生活があり、日常があり、その死を悼[いた]み、嘆き、その後に人生を大きく狂わされる者もいるのだと知らねばならぬ。そういう者を一人でも無くすためにこそ動かねばならぬものよ。そのためになら、予は幾らでも非情になろう」
龍姫は床についた手をきゅっと握り締めた。
「なら、女なら……生まれてくる子が女の子だったら、お許しいただけますか。女の身で、鎌倉を相手に挙兵はできますまい。鎌倉殿の理屈なら、女の赤子なら許していただけるのではございませぬか」
頼朝はこれにはあっさり了承した。
「舞いが見事であったならば、女の赤子は静[しずか]の腕の中へと返そう。そのまま母子がどこへ行こうと咎[とが]めぬことを褒美といたそう」
ぴくりと静御前の身体が反応した。鎌倉方に捕まって以来、真っ暗闇の中にいたようなものだったろう。そこにほんのわずかながら、光明が差した。こういう時、人は希望への喜びよりも、言い知れぬ恐ろしさを覚えるものだ。
龍姫が静御前へと振り返る。
「舞いますか」
静御前の顔色が紙のように白いのは、体調が悪いせいもあるが、身重でどこまで舞えるか不安に思っているためもあるだろう。
それでも、
「舞います」
震える小さな声で静御前は答えた。それしかわが子を助ける道がないのなら、ほとんどの母親が同じ道を選ぶだろう。
(秋山香乃・作/山田ケンジ・画)