第四章 骨肉の争い(44)【頼朝 陰の如く、雷霆の如し】

 朝日[あさひ]御前は、龍[たつ]姫の髪を手ずから梳[す]いてやっていた。巻き上げられた御簾[みす]の向こうには、暖かな日差しの中、吹き渡る春風に薄桃色の花びらが舞っている。
 龍姫の部屋の周囲は限られた者しか入ってこられないから、天気の良い日はこうして開け放つことも多かった。龍姫の意思ではない。龍姫は未だ二年前の義高[よしたか]殺害事件が尾を引いて、ほとんど感情を露[あら]わにすることは無かったし、あまり喋[しゃべ]ることもない。
 ただ、時々笑顔を見せるようになっていた。今年、文治二(一一八六)年に入ってすぐ、朝日御前が龍姫の妹を出産したのだ。名を三幡[さんまん]という。生まれたばかりの赤子を覗[のぞ]き見ているときだけ、龍姫の目に生気が戻る。三幡が笑うと、微かだが釣られて龍姫も笑う。
 (このまま少しずつでも感情を取り戻してくれれば……)
 母親として、朝日御前には祈ることしかできない。せめて母が味方なのだと伝えたく、毎朝こうして娘の髪を梳くようになった。返事はあまり返ってこないが、髪に優しく触れながら、色々な話をする。
 「昨日は少し騒がしかったでしょう。九郎殿の側室で、舞いの名手で名高い静[しずか]御前が都から参られたのですよ」
 いつもは微動だにしない龍姫の頭がぴくりと動いた。えっ、と朝日御前の鼓動が高鳴る。
 (いったい今の言葉のどの部分に反応したというの)
 決して楽しい話題ではないので、さらりと終えるつもりでいたが、もし娘が興味を持ったのならと、朝日御前は静御前の話を続ける。この二年で龍姫が妹の誕生以外で興味を示したのは、二回しかない。義高の二人の従者海野幸氏[ゆきうじ]と望月重隆[しげたか]が鎌倉御家人として取り立てられたときと、義仲[よしなか]の妹・宮菊[みやぎく]姫が救われたときだけだ。
 「もしかしたら舞いを観る機会があるかもしれませぬね」
 これから厳しい尋問にあうことや、身籠[みごも]った子を殺されるために鎌倉で産まねばならぬことなど、静御前に用意された過酷な運命はまさか話すわけにいかない。当たり障りなく舞いの話をした。
 「九郎様は見つかり次第、殺されるのでございましょう。ならば静御前はどうなるのでございますか」
 だのに龍姫は、自ら際どい話題に踏み込んだ。愛娘が、こんなに長く言葉を発したのは久しぶりだ。朝日御前はこの機会を逃してはならないと焦った。
 (秋山香乃・作/山田ケンジ・画)

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