三方ケ原の戦いから450年 「家康と信玄の関係性は」歴史学者ら意見交換 浜松市中区でシンポジウム

 徳川家康と武田信玄の軍勢が浜松市内で争った三方ケ原の戦いから450年を迎えるのに合わせ、同市は4日、シンポジウムを中区の市福祉交流センターで開いた。歴史学者や徳川、武田両家の当主が家康と信玄の関係性について意見を交わした。

シンポジウムで意見を交わす(左から)磯田教授、徳川さん、武田さん、平山さん=浜松市中区の市福祉交流センター
シンポジウムで意見を交わす(左から)磯田教授、徳川さん、武田さん、平山さん=浜松市中区の市福祉交流センター

 信玄は遠江地方を西進し、三方ケ原の戦いで家康を破った後、三河まで進み死亡した。来年の大河ドラマ「どうする家康」の時代考証を担当する山梨県立中央高教諭の平山優さんは、この遠征の目的を「将軍のいる京都ではなく、家康が治める遠江と三河を制圧したかった。さらに岐阜の織田信長の攻略を狙った」と述べた。
 信玄の息子勝頼の死後、家康は武田氏の家臣を迎え入れた。国際日本文化研究センターの磯田道史教授は「家康は戦に強くなり、江戸幕府を支える人材もいた」と紹介した。
 徳川家19代当主の徳川家広さんは江戸時代の史書「徳川実紀」の記述を踏まえ「家康は隣国に強敵がいたことで、たくましくなったと考えていたようだ。武将としての信玄をリスペクトしていたのでは」と話した。
 武田家の現当主武田英信さんも登壇した。

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