大正期「暴れ天竜」を克明に 改修記録、縮尺図を初公開 没後100年で防災啓発 浜松・明善記念館
天竜川の治水に尽力した浜松市出身の実業家金原明善(1832~1923年)が明治初期に計画し、完了まで80年を要した河川改修工事の経過を記した「天竜川平面図」(大正10年)の展示がこのほど、同市東区安間町の明善記念館で始まった。毎年のように洪水を引き起こし、「暴れ天竜」と恐れられたかつての姿をうかがえる貴重な史料。来年1月に明善没後100年の節目を迎えるため、改めて功績を伝えようと初の公開を決めた。
平面図は現在の鹿島橋(同市天竜区)付近から河口までを3千分の1の縮尺でまとめている。幅1メートル80センチ、長さ8メートル。新築する堤防の位置や、工事で立ち退きが必要な民家一軒一軒を詳細に記入。国土交通省浜松河川国道事務所(同市中区)が保管し、2年前に記念館に寄贈した。
改修以前の天竜川は浜松市の三方原台地と磐田市の磐田原台地の間で流路が複雑に枝分かれし、川幅も不均等なために水害が相次いでいた。現在のJR東海道線鉄橋の下流で東西に分かれていた支川の締め切りや築堤を発案した明善は1875(明治8)年に河川改修工事会社を設立し、自宅を含め、私財を投じた大工事を明治政府に申し出た。
改修はその後、政府に引き継がれた。鉄橋上流を中心に護岸を強化し、1900年に一度は完了した。だが、11年8月の洪水で浜松側、磐田側ともに甚大な被害を受け、再度の大規模改修が必要になった。記念館に展示中の平面図は再改修に際して天竜川の状況を記録しようと当時の政府が作成したとみられる。
鉄橋下流の支川の締め切り工事は太平洋戦争後の51(昭和26)年に完成した。明善の念願は没後30年近くを経て成就した。玄孫の金原利幸館長(72)は「改修された現在の天竜川から、かつての氾濫を想像できない人も多い。治水の歩みに目を向け、防災への意識を新たにしてほしい」と思いを語った。
(浜松総局・柿田史雄)
<メモ>金原明善の功績は天竜川治水事業を中心に利水、植林、教育など多岐にわたる。下流域の沿岸開発を政府に引き継ぐと、治水における治山の重要性に注目。上流域にある現在の浜松市天竜区龍山町の瀬尻国有林にスギやヒノキを植え、林業発展の礎を築いた。1888(明治21)年には、日本で最初の更生保護施設とされる県出獄人保護会社を創設し、受刑者の出所後の生活を支えた。明善記念館には毎年、全国各地の保護司が足を運ぶ。