噴火で埋没の須走 地中の集落、解明へ一歩 小山町生涯学習課課長補佐/金子節郎氏【本音インタビュー】

 1707年の富士山宝永噴火で火山灰に埋まった集落が地中に残るとされる小山町須走地区。町教委による2019年と22年の試掘調査の中心を担い、家屋の柱や什器(じゅうき)などを発見した。調査の成果と今後の展望を聞いた。

金子節郎氏
金子節郎氏

 -宝永噴火当時の須走の様子は。
 「駿河、甲斐、相模の3カ国が交わる交通の要衝として栄えた。富士山須走口登山道の起点でもあり、観光業や宿泊業が盛んだった。冨士浅間神社の門前の本通り両脇に76軒の住宅や旅籠(はたご)が立ち並んでいた。噴火では約390センチの火山灰が積もった。39軒が重みでつぶれ、37軒が焼失した。除去できないほどの降灰量で、火山灰の上に新たな集落が形成されたと伝わる」
 -試掘調査の経過は。
 「過去に建設工事や解体工事現場から石臼や鍋などが発見されたが、年代は特定できなかった。2016年から19年に東京大などと実施したレーダー探査で建物が埋まっている可能性があると分かった。この結果を受けて実施した19年の調査で、家屋の木柱2本と畑の畝、家屋の礎石か階段だったとみられる石列などを発見した。22年の調査では、すり鉢や釜などが出土した。22年9月に日向(ひなた)遺跡として登録した」
 -発見の成果は。
 「宝永噴火の火山灰で埋没した建物が小山町で見つかったのは初めて。1軒だけ埋まっているとは考えられず、集落全体が残っている可能性が高い。見つかった建物と畑の位置関係から、当時と現在の集落のメイン通りが同じ場所だと分かった。畑は小さいが、標高が高く農業に不向きとされる須走に菜園があったのは驚きだ。遺物の発見によって当時の生活がイメージできるようになった。記録がほとんど残っていない噴火前の様子を知る重要な史料になる。高価な青銅器の急須が残されていたのは興味深い」
 -今後の展望は。
 「現場は現状のまま地面の中に保存する。それが最善の選択だ。歴史を解き明かすには本格的な調査が必要だが、技術が進歩した後世に実施する方が大きな成果を得られる。江戸時代のタイムカプセルを本格的に開けるのは未来に託したい。当時の村民の子孫は今も須走に住んでいる。いつか『日本のポンペイ』の全容が解明されれば住民の誇りになる」
 (聞き手=御殿場支局・矢嶋宏行)

 かねこ・せつろう 考古学の研究所勤務を経て1999年に小山町に入職。富士山の世界遺産登録、後北条の出城だった足柄城跡発掘に携わった。51歳。

いい茶0
あなたの静岡新聞 アプリ
地域再生大賞