第三章 鎌倉殿㉚【頼朝 陰の如く、雷霆の如し】

亀[かめ]の前[まえ]を住まわせていた御家人伏見広綱[ひろつな]の屋敷が、御台所[みだいどころ]の命によって破壊された出来事は、鎌倉政権が成立して以降、一番の大事件となった。
伊豆の流人時代から献身的に仕え、支えてくれた亀は、頼朝[よりとも]にとって朝日[あさひ]御前では得ることのできぬ癒[い]やしの人である。
朝日御前と結ばれてから、頼朝は決して亀に手を出すことはしなかったが、いつもその存在は気になっていた。頼朝と朝日御前の世話をする亀の瞳が、時おり辛[つら]そうに揺らぐことも知っていた。それでも互いに自制はきいていたのだ。
走湯権現[そうとうごんげん]から鎌倉入りする女たちの中に、亀の姿がないのを知ったとき、頼朝のタガが外れた。自身の焦燥に、今更ながら亀の存在の大きさを思い知った。
懸命に行方を捜した。ようよう見つかった時は神仏に感謝した。頼朝の前に連れてこられた亀の眼差しの中にも、熱い恋情が隠しきれずに燃え上がるのを、頼朝は見た。同じ思いでいることを知った二人は、そのまま無言で求め合ったのだ。
「こんなことになるのが怖くて、御前を去ったというのに、どうして……」
頼朝の腕の中で亀はこれから待ち受ける運命に怯[おび]えた。頼朝は言葉では答えず、震える肩をぐっと抱き寄せた。
気心も知れているだろうからと、蛭島[ひるがしま]で一緒だった中原小忠太光家[みついえ]に亀の身柄を預け、頼朝は足しげく通った。ただ、光家の屋敷は小坪[こつぼ]にあって少し遠い。途中から通いやすい飯島の伏見広綱の屋敷に移した。
一方で、別の女にも艶文[つやぶみ]を送った。あろうことか、相手は兄悪源太義平[あくげんたよしひら]の後妻である。ほとんど会ったことのない女で、好ましく思っていたわけでもなんでもない。ただ、死してなお劣等感を刺激する兄の女を征服してしまいたかっただけだ。女は返事も寄越[よこ]さず、頼朝の魔手から逃れるため、別の男に再嫁した。
結局何も無かったが、亀には全てを話した。
「吾[われ]は人の道を外したのだ」
分かってはいても、そうせずにいられなかった。平治の乱の後の吹雪の中、一人体力が持たずに馬上で眠りこけ、みなの足を引っ張った。その時の義平の軽蔑した眼差しと、舌打ちが脳裏に沁[し]みついて離れない。
鎌倉を中心とする頼朝の支配地は、義平の本拠地であり、男たちはその雄姿を忘れていない。酒が入ると今も義平を称[たた]える男たちが幾人もいる。誰も頼朝が苦しんでいることを知らない。亀以外は。
亀は、黙って抱きしめてくれた。
(秋山香乃・作/山田ケンジ・画)