「家具」で子どもを笑顔に 性同一性障害を公表、安池中也さんに聞く【NEXTラボ】

 木製家具の産地として知られる静岡市葵区で、子ども家具メーカー「えて」を経営する安池中也さん(52)。30歳の時、「子どもたちの笑顔をつくろう」と起業した。3年前、新たに始めたことがある。生まれた時の性別と自認する性が異なる「性同一性障害」であると公表し、静岡県内外の学校などで講演するようになった。「笑顔の少ない子ども時代を送った自分だからこそ、きっと伝えられることがある」。今、安池さんが届けたい思いとは。

小中学校の教職員研修での講演=7月下旬、藤枝市
小中学校の教職員研修での講演=7月下旬、藤枝市
安池中也さん
安池中也さん
熱気が立ちこめる作業場で、家具を組み立てる=8月中旬、静岡市葵区の「えて静岡基地」
熱気が立ちこめる作業場で、家具を組み立てる=8月中旬、静岡市葵区の「えて静岡基地」
絵本から飛び出したような、安池さんが手掛ける家具
絵本から飛び出したような、安池さんが手掛ける家具
小中学校の教職員研修での講演=7月下旬、藤枝市
安池中也さん
熱気が立ちこめる作業場で、家具を組み立てる=8月中旬、静岡市葵区の「えて静岡基地」
絵本から飛び出したような、安池さんが手掛ける家具


 ■小さな行動、その先に変化
 ロボット型の収納家具や大きな古時計。まるで絵本から飛び出したような家具が「えて静岡基地」に並ぶ。地元の木工職人の技術を生かした家具は、全国にファンがいる。安池さんが仕事をする上で、何よりも大事にする「子どもたちの笑顔」。自身はどのような幼少期を過ごしたのか-。
 出生時の性別は女性でしたが、性別への違和感は幼稚園の頃からありました。自分のことを男の子だと思っていました。トイレも立ってしていて、ある時、家で祖母がその姿を見たことがありました。怒っているような、悲しんでいるような、何か汚いものを見るような。そんな表情でした。大好きだった祖母。でも、その日を境に祖母との記憶はありません。小学生になり、買ってもらったのは赤色のランドセルでした。最初は喜んだふりをしていましたが、だんだんとつらくなりました。雨の日の下校中、傘でピカピカの赤いランドセルに大きくバツを書きました。うれしそうに買ってくれた父や母の気持ちにバツをつけてしまった、自分自身にもバツをつけてしまった。僕がいるから、みんなが困ってしまう。「生まれてきてごめんなさい」。泣きながら、ランドセルを引きずって帰りました。
 思春期に差し掛かると、体が日に日に変化していった。「もう男の子にはなれない」。その事実に押しつぶされた。
 朝起きて、着替えがとても苦痛でした。歯を磨く時も、首から下の体が鏡に映らないようにしていました。中学でクラスの男子は声が低くなっていくけれど、自分の声は変わらない。声を出したくなくて、人と話さないようにしていました。「とにかく今日、自分の命を絶たないように」。そればかり考えていました。少しでも気を緩めたら、道路に飛び込んでしまいそうな自分がいました。当時は性同一性障害やLGBTQ(性的少数者)という言葉はなかった。世界で自分一人だけがおかしいのだと思っていました。誰にも言えませんでした。特に親には。愛情かけて育ててくれていたので、悲しませたくなかったです。
 ただ、どこかで「逃げている自分にも嫌気を起こしていた」。高校の入学式に一つの決断をする。
 自ら命を絶ってしまう前に一度だけでも、「自分の思いを伝えてみよう」と思ったのです。「制服を着ると、吐き気と震えが止まらない。黒いジャージーで通学したい」と担任の先生と校長先生に伝えました。校長先生は少し考え、「学校の式典には、学校にとって大事な来賓の方たちが来ます。その時だけ頑張って制服を着ませんか。それ以外はジャージーの着用を認めます」と言ってくれました。自分にとって、ふに落ちる回答でした。もし、あの時、校長先生が僕という一人の人間ではなく、校則や世間体とだけ向き合っていたら、今、自分はここにいなかったと思います。

 ■共に苦しんでくれた同僚
 「性同一性障害」という言葉を知ったのは、会社員として働いていた27歳の時。埼玉医大が性同一性障害の人の性別適合手術を国内で初めて行う、というニュースを見たのがきっかけだった。
 ニュースを見た時、「自分は性同一性障害だったんだ」と分かり、絶望が希望に変わりました。当時、会社でも周囲と距離を取っていましたが、唯一、いつも自分を気に掛けてくれる同僚がいました。彼女に「僕、性同一性障害だった」と、一言だけ伝えました。彼女は「それってどんな感じ? 私は何ができる」と聞いてくれたのですが、「きっと何もできないよ」と言ってしまったんです。彼女は目に涙をためて「あなたを理解したいって言ってるの。何の説明もしないで、一人で被害者ぶらないで」と大きな声で言いました。その時、自分と一緒に苦しんでくれていた人がいたと初めて気付きました。「自分は一人じゃなかった」。そう思えたのは大きな転機になりました。
 30代を目前にし、自身の生き方も見つめ直していた時期だった。
 家具問屋を経営していた父が「家具業界はもうだめだ」と自分に弱音を吐いたことがありました。海外の安価な製品に押され、静岡市の家具職人も厳しい状況にありました。子どもの頃、父の会社で懸命に働く職人さんを見ていました。彼らは本当にもう社会から必要とされていないのか-。どこか自分の姿とも重なり、確かめたい気持ちが湧きました。同時に、一生を懸けて夢中になれることを考えた時、思い至ったのが「子どもたちの笑顔をつくる」でした。自分が子どもの頃、笑えていなかったからこそつくれる笑顔があるのではないかと。「子ども家具」を作ろうと決めましたが、家具作りや販売に関する知識はありません。父や家族は大反対だったので、デザイナーも職人も販売先も、協力者探しは全て飛び込み。とにかく自分の思いを伝え、突っ走りました。

 ■3年前から講演活動
 2019年、起業や自身がマイノリティーとして生きてきた経験を伝える講演活動を始めた。きっかけは、国連が提唱するSDGs(持続可能な開発目標)の基本理念「誰一人取り残さない」を知ったことだった。
 31歳の時に性同一性障害の診断を受け、34歳の時、名前を「中也」に改名しました。数年後、全国放送の番組に性同一性障害の当事者として出演したことがありました。反響は予想以上でした。「気持ちが悪いから商品はキャンセルする」「子どもに関わるな」。誹謗[ひぼう]中傷の電話やメールが多くあり、外出先で見知らぬ人から暴力を受けることもありました。「もう二度と性同一性障害であると明かすのはやめよう」と思い、番組のアーカイブを消してもらいました。ただ、「差別に負けた」という気持ちは残りました。それから20年近くがたち、SDGsの基本理念「誰一人取り残さない」という言葉に出合いました。どきっとしたんです。「子どもたちの笑顔をつくるんだ」と言いながら、昔の自分と同じように、今この瞬間に苦しい思いをしている子どもたちを、見て見ぬふりをしていると。会社の仲間の後押しも受け、もう一度、自分のことを話してみようと決めました。
 中学や高校、教職員研修、市民講座などでの講演回数は60回を超えた。
 性同一性障害やLGBTQ、多様性といった言葉は広く知られるようになりました。ただ、「用語としての理解」にとどまっていることも少なくないのかもしれません。講演を通して伝えたいのは、性同一性障害のつらさではありません。これは自戒を込めてですが、自分が「知っている、理解している」と思っていることをいま一度、疑ってみてほしいのです。大人の皆さんには、生きづらさを抱える子どもたちを理解しようと努力し、行動してほしい。一方、当事者や子どもたちに対しては、自分の思いを伝えてみること、小さな行動を起こしてみることの大切さを伝えたいです。今この瞬間も、誰も気付かないところで苦しんでいる子どもたちがいます。この先の社会でも、今は想像もできないような新しい課題、生きにくさが出てくるかもしれません。でも、僕が勇気を持って声を上げた時、受け止めてくれた人たちがいました。その人たちと一緒に積み上げてきた小さな行動の先に、自分自身や社会の変化がありました。学校で声も出せなかった僕が今、子どもたちの前で笑いながら話しています。泣きながらバツをつけたランドセルの色は赤色や黒色だけではなくなりました。「一人一人の思いや行動には社会を変えていく力がある」。子どもたちにそう感じてもらえるよう、これからも講演を続けていきたいです。

 やすいけ・ちゅうや 1970年生まれ。子ども家具メーカー「えて」を2000年に創業、05年に株式会社化した。県内外で「木育ワークショップ」を展開するほか、オンラインで子どもたちが課題解決に取り組む架空の会社「株式会社こども会議(仮)」を運営する。

<メモ>「LGBTQ」は、同性愛者のレズビアン(L)、ゲイ(G)、両性愛者のバイセクシュアル(B)、生まれながらの性別と自認する性別が異なるトランスジェンダー(T)、性自認や性的指向が特定の枠に属さない、または分からないクエスチョニング(Q)ら、性的少数者の総称。「性同一性障害」は、トランスジェンダーのうち、性別違和によって精神的、社会的、身体的苦痛が持続的にある場合に医学的に診断される。


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