第三章 鎌倉殿⑰【頼朝 陰の如く、雷霆の如し】
「それで、妻と子とささやかに暮らしていきたかった義円[ぎえん]が、なにゆえ叔父上の挙兵に付き合ったのだ」

頼朝[よりとも]が全成[ぜんじょう]に訊[たず]ねる。
「きっぱりとそうするには、あまりに罪悪感が勝ったのでしょう。暮らしている場所の目の前で、源平の戦いが繰り広げられるのですから、それはもう耳を塞[ふさ]いでも目を閉ざしても、『なぜおまえは参陣せぬのだ』という声なき声が、耳を叩[たた]くではありませぬか」
「……そういうことか。義円も哀[あわ]れな。無理して辛い道を選ばずともよかったのだ」
頼朝は、二人の弟を代わる代わるに見た。
「土地を持たぬうちは、何の責務もない。予は構わぬゆえ、義円と同じ望みを抱いた時は、いつでも去るがよい」
義経[よしつね]の顔が、見る間に曇った。
頼朝は続ける。
「ただし、予から領土を安堵[あんど]された後は、この頼朝のために存分に働け」
義経の真っ黒な瞳に春光が差し込み、わずかに紺青[こんじょう]が宿った。
「九郎はどこまでも、兄上のお役に立ちとうございます」
誓いを立てるようにきっぱりと言い切る義経とは逆に、全成は何も言わない。だが、すでに、手放せないほど、この男は頼朝の役に立ってくれている。
(九郎は純粋なのだな。こんな時代に何の駆け引きのやり方も教わらず、ただ真っすぐに育てられたかのようだ。誰が何のために……)
義経自身に何ら含むところがなかったとしても、警戒を解くわけにはいかない。秀衡[ひでひら]が、家人、佐藤継信[つぐのぶ]・忠信[ただのぶ]兄弟を付け、義経を平泉から送り出していたからだ。
義経に間諜活動ができるなどとうてい思えぬが、佐藤兄弟はやっているとみるべきだろう。鎌倉の情報は漏れている。ならば逆手に取り、秀衡に伝えたい内容を意図的に掴[つか]ませ、情報を調整すれば良い。全成も、それに一役買っている。
三人は義円の冥福を祈り、酒を酌[く]み交わした。
「一度だけでも、兄上にお会いしたかった」
義経が呟[つぶや]く。
「義円の忘れ形見に、いつか会いにいってやるといい」
と言って全成は、はるか都を望み、
「母上に、何とお伝えしたものか」
ぽそりと付け足した。
釣られるように、義経も西を見る。
頼朝だけが、心を北に向けていた。
(秋山香乃・作/山田ケンジ・画)