第三章 鎌倉殿⑮【頼朝 陰の如く、雷霆の如し】

後から知ったことだが、墨俣川[すのまたがわ]の戦いには、義朝[よしとも]の八男、頼朝[よりとも]にとっては異母弟の義円[ぎえん]が参陣し、平家に討ち取られた。
義円は全成[ぜんじょう]の同母の弟で義経[よしつね]の兄に当たる。
頼朝は、全成を鎌倉に呼び出し、義経にも声を掛けると、風光る中、酒を片手に三人で大倉御所の西方にある亀ケ谷まで歩いた。
黄瀬川で対面した後、ほとんど頼朝に放られていた義経は、呼ばれたことが嬉[うれ]しくて、足取りも弾んでいる。
全成の方は事情を察している顔つきだ。そんな、楽しいことじゃないよ、と言いたげに、眉を八の字にして弟を見守っている。
向かった亀ケ谷には、かつて父義朝[よしとも]の館があった。今は義朝を弔う寺院が建っている。まずは礼拝を済ませ、何十年か前に父が笑ったり怒ったりしたであろう屋敷の跡を、息子たち三人で踏んだ。山桜が、雪のように花びらを散らしている。
「すでに聞き及んでいるかもしれぬが、義円が先の平家との戦で、討ち死にした。今日はせめて父上ゆかりの場所で、共に義円を弔ってやりたく、お前たちを呼んだのだ」
頼朝は二人の弟に告げた。
義経が、えっ、という顔をする。哀[かな]しみはさほど襲ってきていないようだ。頼朝も同じである。義円とは会ったこともない。互いの間で積み重ねた思い出など、何一つない。
頼朝にしてみれば、石橋山で佐奈田与一義忠[よいちよしただ]を失ったときの方が、よほど動揺した。
離れ離れになった時に赤子だった義経も、同じ母から生まれた兄弟とはいえ、義円のことは何も覚えていないに違いない。
だが、全成は違う。二歳しか離れていない弟で、五年間、一緒に過ごした思い出がある。それでも死を知ったのが今日ではなかったせいか、寂しそうな顔をしただけで、取り乱すことも、涙を流すこともない。
「なぜ、義円兄上は、武衛[ぶえい]の許[もと]ではなく、叔父上の所に馳[は]せ参じたのですか」
義経が純粋な疑問を口にした。武衛とは頼朝の呼び名だ。最後に就いた官途が右兵衛権佐[うひょうえごんのすけ]であり、兵衛佐を唐名で「武衛将軍」と言うからだ。最近は「佐殿[すけどの]」より「武衛」と呼ばれることの方が増えた。武衛の方が重々しく響くからだろう。
なぜ、義円が自分より行家[ゆきいえ]を選んだのか、頼朝には分からない。頼朝にすれば、義円は園城寺[おんじょうじ]で後白河[ごしらかわ]法皇の第四皇子円恵法親王[えんえほっしんのう]に仕えていたのだから、鎌倉に来て朝廷との橋渡しをしてほしかった。
頼朝が義経の問いに首を左右に振ろうとしたとき、「それはね」と全成が口を開いた。
(秋山香乃/山田ケンジ・画)