第三章 鎌倉殿⑩【頼朝 陰の如く、雷霆の如し】
多くの者を許した頼朝[よりとも]だったが、大庭景親[かげちか]の首は刎[は]ねた。源家側に付いた兄の大庭景義[かげよし]に、「弟の命乞[ご]いをするか」と訊[たず]ねたところ、首を左右に振ったからだ。

景義は、保元の乱で左足の膝を射られて以来、思うように歩けず、家督を継ぐことができなかった。代わりに継いだのが、景親だ。
「大庭の家はこの三郎に任せ、兄上はこれより先はゆるりと過ごされよ」
労[いた]わりのつもりで掛けた言葉が、逆に景義の行き場のない憤懣[ふんまん]を刺激した。戦場で動けなくなった景義を救い出したのも景親なのだ。が、景義は弟を憎んだ。自分ではどうしようもない感情である。
頼朝は、二人の事情を伝え聞き、おおよそのことは知っていた。が、あえて訊ね、「全てお任せいたします」と答えた景義の前で、首を刎ねた。
景親の兄に向けた最後の目が、頼朝は忘れられない。過去に命を救ったことの後悔と、なぜだという疑問と、それほど吾[われ]が憎いのかという絶望に、今となっては何もかも致し方ないという諦めが入り混じる目だった。
頼朝は景親と違い、景義に多くの仕事を振った。普請奉行に任命し、戦に出ずとも活躍できるよう取り計らった。
その景義が鎌倉大倉郷に普請した頼朝の邸宅、大倉御所に移転する祝いの儀が、十二月十二日の月明りの下、亥[い]の刻に盛大に行われたのだ。亥の刻は、「繁栄」を意味する目出度[めでた]い時刻であり、月が十二日にもっとも地上を照らす時刻でもある。
頼朝は、水干[すいかん]姿で石和[いさわ]産の栗毛に跨[またが]り、上総広常[かずさひろつね]の館から大倉御所へ向けて行進した。
三浦党の和田義盛[よしもり]が露払いを務める。頼朝の左横には、未だ独立を貫く武田勢の中で、唯一真っ先に臣従の意を示した加賀美氏の次男長清[ながきよ](後の小笠原氏)が付く。右には、流人時代から頼朝を慕う忠臣毛呂季光[もろすえみつ]が従う。
その後ろを北条時政[ときまさ]、義時[よしとき]父子が守り、足利氏、山名氏、千葉氏、小野田氏、土肥氏、岡崎氏、工藤氏、宇佐美氏、土屋氏、佐々木氏ら「御家人」たちが続いた。
殿[しんがり]を務めたのは、畠山重忠[しげただ]だ。
馬が突き進むに従い、松明[たいまつ]の火の粉が流線を描き、遠目で見ると一匹の龍が鎌倉のできたばかりの道を悠然と進むように見えた。
この時従った者たちは三百十一人に及ぶ。
頼朝は、鎌倉の主「鎌倉殿」として、忠誠を誓った男たちを大倉御所に造られた侍所[さむらいどころ]に招き入れた。
一兵も持たなかった頼朝が、軍勢を手中に収めたのである。
(秋山香乃・作/山田ケンジ・画)