テーマ : 連載小説 頼朝

第三章 鎌倉殿⑨【頼朝 陰の如く、雷霆の如し】

 佐竹攻めを上総広常[かずさひろつね]の活躍で成功させた頼朝[よりとも]は、十一月十七日に鎌倉に凱旋[がいせん]した。
 出陣前は朝日[あさひ]御前だけが鎌倉入りしていたが、無事に戻ってきた頼朝を、幼い龍姫[たつひめ]が出迎えてくれた。最後に見たのは八月だったから、もう三か月も経っている。顔立ちが以前よりはっきりしたようだ。
 小さな桃色の唇が、父様、おかえりなさいませ、という言葉を、たどたどしくなぞる。
 「父様が戻ってくるまでにと、何度も繰り返し口にしてきたのです」
 姫の横で、朝日御前が瞳を輝かせ、教えてくれた。頼朝は姫を抱き上げる。
 「もう一度言うてくれぬか」
 父親に頼まれて、龍姫が嬉[うれ]しげに繰り返す。このまま一緒に過ごし、何度でも娘が話す姿を見ていたかったが、まだ頼朝にはやらねばならない仕事が残っている。一息つく暇などなかった。
 この日のうちに、御家人となった者たちを統制する政務機関として、侍所[さむらいどころ]を設置する予定だ。別当[べっとう](長官)には、三浦党の和田義盛[よしもり]を補任する。いよいよ内政に着手したのだ。
 戦後処理も随時、行う。富士川の戦いが終わった後から、論功行賞をしたり、平家方に与[くみ]して頼朝に弓を引いた者たちを処罰したりしてきた。
 処罰に関しては、実際に処刑するのは、捕らえた武士の十分の一ほどの人数だ。今後、頼朝のために仕えることを約束した者は、取り立てて麾下[きか]に入れる。人材は宝だからだ。
 頼朝を罵倒し、戦場では実際に矢を当てた乳母子[めのとご]、山内首藤経俊[やまのうちすどうつねとし]のことも許した。本当は殺すつもりだったが、乳母の山内尼[やまのうちのあま]に泣き縋[すが]られた。
 「他の者は多く助命されましたのに、どうして息子だけは殺されねばならぬのでしょう。わが家は、代々源家に仕え、平治の乱の折も源家に命を捧[ささ]げ、夫と嫡男を失いました。その功に免じ、どうかお慈悲を……」
 いつも穏やかで優しかった乳母の、泣き乱れ、時に般若のような顔で食い下がる姿に、頼朝は嫌悪を覚えた。まるで知らぬ女を見るようだ。頼朝は、一言も発さず、ただ石橋山で着用した鎧[よろい]を、土肥実平[どひさねひら]に持ってこさせた。
 鎧の袖には、矢柄[やがら]を口巻[くつまき]の少し上から切った矢が刺さったままにしてある。口巻の上に書いてある矢の持ち主、経俊の名を、頼朝は淡々と読み上げた。山内尼の顔色がサッと変わる。全ての事情を察した尼は、もう助けてくれとは言えなくなり、深く頭を下げて退出した。その尼の萎[しぼ]んだ姿が脳裏を離れず、結局、頼朝は経俊を殺せなかった。
(秋山香乃/山田ケンジ・画)

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