第三章 鎌倉殿⑧【頼朝 陰の如く、雷霆の如し】

戦勝祈願をした三島社に、御礼参りへ行く準備をしていた頼朝[よりとも]の許[もと]に、昼過ぎ、一人の男が訪ねてきた。旅装も解かず、身なりの乱れたままの弟、九郎義経[よしつね]だ。
「兄上、お会いしとうございました」
宿所に通された義経は、少し高めの声で叫ぶと、見る見るうちに目に涙を溜[た]めた。
全成[ぜんじょう]も、初めて会ったとき、「兄上」と自分を呼んで、咽[むせ]び泣いた。あの時はいじらしく感じたが、広常[ひろつね]らとのやり取りの後では、
(九郎はいったい何を望み、平泉からわざわざ私の前に現れたのだ)
その意図を探ろうとする冷めた己がいる。
「全成には会うたか」
頼朝の問いに、義経は目を見開く。
「七郎兄上がここにおられるのですか……すでに参陣しているとはつゆ知らず」
今の返答で、頼朝は義経にわずかに失望した。この黄瀬川宿に辿[たど]り着いて、戦況くらいは探ったのかもしれないが、頼朝周囲の人間関係などは何一つ調べることなく、姿を現したのだと読み取れる。
頼朝の弟である全成の居所は、誰かに訊[き]けばすぐに教えてもらえたはずだ。先に落ち合っていれば、全成が身なりも整えてくれたろう。さらに、全成の仲立ちで、相応の形で兄弟の対面が果たせたはずだ。
「七郎は、同母の兄だ。予よりずっと会いたかろう。後で手配してやるから、今夜は共に過ごすがよかろう」
「かたじけのうございます」
戸惑いが顔に出ている。ただ兄を慕ってここまで来たというのなら、全成のことも頼朝以上に恋しいはずだが……。
「全成は、その方を己が手に抱いたことがあると言うて、会いたがっておったぞ」
頼朝の言葉に、義経はわずかに頬を赤らめた。思ったことが素直に顔に出る性質[たち]らしい。
それにしても、義経の背後にいる秀衡[ひでひら]の存在が気にかかる。あの男は、この騒乱を、どう見ているのか。
(奥州藤原氏は、敵に回るのか、味方となるのか、はたまた傍観するのか)
秀衡の選択一つで、頼朝の今後の動きも変わることになる。もし、敵に回るようなら、背後に奥州の脅威を背負い、平家と対峙[たいじ]せねばならなくなる。それに、秀衡と義経が、頼朝を手に掛けるため、呼応して動かぬ保証はない。
「九郎、よく来てくれた。さあ、奥州での話を、訊かせてくれ」
頼朝の優しい言葉に、義経の目が輝く。訊[たず]ねられるまま、奥州の動向を語り始めた。
(秋山香乃/山田ケンジ・画)