首都圏発展の陰で 副産物、条例逃れ地方へ【残土の闇 警告・伊豆山㉕/第5章 繰り返す人災②】

 東京に隣接し、ベッドタウンとして発展してきた千葉県市川市。江戸川河口に広がる平野の一角、ダンプカーや大型トラックが音を立てて行き交う湾岸道路沿いに小高い丘がある。木々がうっそうと茂る標高37メートルの山は地域名を冠して「行徳富士」と呼ばれるが、その正体は名称に似つかわしくない残土の山だ。

東京湾の千葉県木更津港に留め置かれた大量の土砂。残土も含まれ「残土埠頭」と呼ばれていた=2009年2月(佐久間充さん提供)
東京湾の千葉県木更津港に留め置かれた大量の土砂。残土も含まれ「残土埠頭」と呼ばれていた=2009年2月(佐久間充さん提供)
行徳富士(市川市) 残土埠頭(木更津港)
行徳富士(市川市) 残土埠頭(木更津港)
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東京湾の千葉県木更津港に留め置かれた大量の土砂。残土も含まれ「残土埠頭」と呼ばれていた=2009年2月(佐久間充さん提供)
行徳富士(市川市) 残土埠頭(木更津港)
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 近くを散歩していた70代男性は「この地域に住み始めて40年。当時から山はあった」と振り返った。周囲にあるのは人家ではなく産業廃棄物の処分場。「今では木が生えて自然の山に見えるでしょ。危険性もないし、『行徳富士』が残土の山だと知る人はもう地元に少ないよ」と気に留めた様子はない。
 残土は高度経済成長に伴う首都圏発展の副産物だった。ビルを建てる際に基礎にする地面を掘ったり、住宅地で斜面を平らに造成したりすると土砂が大量発生するが、建設業者にとっては“邪魔者”になる。
 東京都職員として環境行政に長年携わり、自宅のある千葉県で1980年代から残土問題の市民運動を主導してきた藤原寿和さん(75)は「首都改造の64年東京五輪の頃から残土は千葉に持ち込まれ、谷地の埋め立てなど野放図な処分が行われてきた」と解説する。当時は湾岸部の埋め立てに使われる土砂も多かったが、埋め立てが少なくなると残土は行き場を失い、産業廃棄物を混入して水田を埋め立てる事例が相次いだ。
 市川市では80年、残土で埋め立てられた休耕田の沼に幼児2人が転落して水死する事故が発生。これをきっかけに全国の自治体として初めて残土を規制する条例を制定した。市によると、同時期に無許可と判明したのが行徳富士だった。それ以降、パトロールしたり、残土処分業者を告発したりして、現在は「土砂の搬入は止まっている」(市の担当者)という。
 90年代、規制のかかる自治体を避けるように千葉県中西部でも残土の山が築かれた。著書「山が消えた 残土・産廃戦争」(岩波書店)を執筆した女子栄養大名誉教授の佐久間充さん(85)は「良質な山砂が取れるため採取場が多く、熱海の海岸にも千葉の山砂は使われた」と回顧する。山砂を東京方面に供給した木更津港(千葉県)には、復路で受け入れた残土などを山積みにした「残土埠頭(ふとう)」ができた。東京方面から船で大量輸送された残土は最終的にダンプカーで採取場の跡地に運ばれ、「平成新山」と呼ばれる残土の山も出現した。
 その後、残土内の有害物質による水質汚染が市町村の枠を超えて社会問題化すると、千葉県は全国に先駆けて97年に県条例を制定。広域対応の流れは加速し、98年の栃木、99年の神奈川、2002年の埼玉、03年の茨城と立て続けに県条例ができた。それでも国は規制の法律を作らなかった。藤原さんは「自治体が条例で規制しても法律がなく、県境を越えて残土が持ち込まれると対応に限界があった。人が死なないと国は動かない」と指弾する。
 自治体による規制エリアの拡大とともに、負の遺産でもある残土は都市部から遠ざかった。千葉での市民運動も下火になっていく。規制を強化した首都圏では皮肉にも住民の残土問題への関心は薄れ、法の網のかからない地方にしわ寄せが及ぶことになる。警鐘を鳴らし続けてきた佐久間さんは言う。
 「大都市の住民にとって熱海の土石流は人ごと。遠い世界のことだと感じている」
 (熱海土石流取材班)

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