第二章 決起①【頼朝 陰の如く、雷霆の如し】

元号が、安元から治承に変わって間もない野分[のわき]の季節。頼朝は写経の手を止め、亀[かめ]に一杯の白湯を頼んだ。
「まだ続けられますか」
椀を渡しながら訊[たず]ねる亀に、頼朝は首を左右に振る。
「いや、もう寝よう」
これ以上、起きていては灯りの油がもったいない。いざという時のために銭を貯めねばならない。それに、数か月前に叔父の祐範[ゆうはん]が亡くなり、わずかに生活が苦しくなった。頼めば比企尼[ひきのあま]も三善康信[みよしやすのぶ]も祐範が支援してくれていた分を補填[ほてん]してくれるだろうが、頼朝は黙っている。
「嵐が来るな」
外は風が荒れ狂い、古くなった蔀[しとみ]が悲鳴のような音をたてている。写経をしているうちは、集中していたから聞こえなかった。
「はい。外は灰黒色の雲が渦巻いて、たいそう恐ろしゅうございます。雨ももうすぐ降り出しましょう」
亀が寝具を整えながら答える。
豪雨になれば周囲は水で満ち、蛭島[ひるがしま]は湖中の小島のような様相を呈する。水が引くまでは、どこにも行けないし、誰も訪ねてこられない。頼朝は少しほっとしていた。これからのことを考えるのに、ちょうど良い時間となるだろう。
少し前に大番役を務め終えた北条時政[ときまさ]が、都から戻っていた。娘の朝日姫と頼朝が男女の仲になったことを知り、
「何のために亀を差し向けたのだ」
呟[つぶや]いたが、祐親のように罵倒はしなかった。
ただ、
「認められぬ」
首を縦に振ることもなかった。
時政は、頼朝に対して冷ややかな態度はとらなかったが、娘の朝日姫には厳しく臨んだ。北条館に閉じ込めて見張りを立て、一切の外出を禁じたのだ。その後で、頼朝を遠出に誘った。ほんの数日前のことだ。
二人は、初めて会ったときのように馬を駆った。しばらく風と一体となり、領地の南端まできた。時政は流れる汗を拭い、
「六月に都で起こった事件は知っておろう」
と切り出した。
無論、と頼朝はうなずく。三善康信が、知り得る限りの詳細を知らせてくれていた。
京東山の鹿ケ谷[ししがたに]にある山荘で、後白河[ごしらかわ]法皇の近臣らが平家打倒の謀議を巡らした事件である。密告によってことは早々に露見し、加担した者は拷問の末、打ち首となったり流罪になったりした。
(秋山香乃/山田ケンジ・画)