第一章 龍の棲む国㊳【頼朝 陰の如く、雷霆の如し】

三善康信[みよしやすのぶ]が今回遣わした使者も、いつもと変わらぬ月に三度の定期便の一つであったが、文に書かれた都の情勢には、見過ごせない「兆し」があった。
そこには、後白河院[ごしらかわいん]の皇太后で、今上帝高倉[たかくら]天皇の生母、建春門院[けんしゅんもんいん](平滋子[しげこ])が七月八日に崩御したことが綴[つづ]られている。建春門院は、清盛[きよもり]の嫡妻・時子[ときこ]の妹だ。
近頃、徐々に後白河院と平家の利害がずれ、両者の間に亀裂が入りつつある中、かろうじて建春門院の存在が崩れかけた絆を繋[つな]いでいた。
後白河院の寵愛[ちょうあい]を一心に受けていただけでなく、建春門院自身に政を采配する才があり、強い発言力を有していたからだ。朝廷の中の難しい力関係を、上手く操って均衡を保たせていた。その要の皇太后が死んだ。
平家に綻[ほころ]びが出た―――と、文に目を通す頼朝[よりとも]の心の臓が大きく脈打った。このときをどれほど待っていたことか。
今は後白河院が院政を敷いているが、娘徳子[とくし]を立后させた清盛が、高倉天皇を傀儡[かいらい]に、平家による政権を樹立しようと望んでいるのは明らかだ。徳子が無事に皇子を授かり、皇位に就けば、清盛は帝の外祖父となる。そうなったとき、あの男は晴れてこの日本を動かす権利を得ることになる。
そんな危険な事態を前に、一癖も二癖もある後白河院が、黙っているはずがない。何かしら仕掛けるはずだ。
(久しぶりにわが国に、乱や変の風が吹くやもしれぬ。そのとき、この流人にも、好機が訪れぬとも限らぬ。いかに無謀な考えに思えても、私は千鶴[せんつる]丸に誓ったのだ。時がくれば起つ、と。後悔だけはせぬよう、相応の準備は進めねばなるまい)
頼朝には手勢がない。この無力な状態にもかかわらず、伊豆や相模近在の東国武士に押し立てられる男にならねばならぬ。いったいどんな人物なら、人は己の命を預け、希望を見出し、ついてくるのか。
(私はどんな男にならねばならぬのか)
頼朝は三善康信の使者が帰った後、辺りを逍遥[しょうよう]した。狩野川沿いにゆるりと馬を歩ませる。轡[くつわ]を取って供をするのは、新しい居候の中原光家[みついえ]、通称小中太[こちゅうた]である。
頼朝の留守の間、蛭島[ひるがしま]の館が朽ちぬよう管理してくれていたのはこの男だ。朝日姫の手配だったそうだが、頼朝と郎党らが戻り、役目を終えた後も立ち去らず、住み着いたのだ。
その光家が、
「おや、誰か来ますぜ」
遠くに起こった土煙を指し、振り返った。
(秋山香乃/山田ケンジ・画)