第一章 龍の棲む国㉞【頼朝 陰の如く、雷霆の如し】
頼朝[よりとも]は走湯権現[そうとうごんげん]へ「逃げてきた」のだが、「伊東氏は流人を逃がしてしまうような失態は犯していない」と言い張りたいのだ。

だから、「北条氏の許しを得て参拝にきた」という頼朝の主張を、祐親[すけちか]はあっさり受け入れたのだと、祐清[すけきよ]は教えてくれた。
「もう二度と伊東の地を踏まねば、北条荘で佐殿[すけどの]が何をしようと、父曰[いわ]く、『知らぬこと』とのことでございます」
「相分かった」
つまりは、もう走湯権現に隠れていなくともよいということだ。危機は脱した。だのに、少しも気が晴れず、屈辱感に苛[さいな]まれる。
頼朝は一度、視線を上げて遠くを見、三歩ほど後ろに付いて歩く祐清を振り返った。
「それで、八重[やえ]姫はどうしておるのだ」
ずっと気にかかっていることを口にした。愛児を実の父にあんな形で殺され、一番傍[そば]で支えて欲しいはずの男は別の地に逃げた。どれほどの絶望感の中で打ちひしがれていることか。何とか、伊東から連れ出すことはできぬものか。
頼朝の口から八重姫の名が出たとたん、祐清の顔が歪[ゆが]んだ。
「……妹は、別の男に嫁がされました」
頼朝の息が止まりそうになる。
「それを八重姫は……」
納得したのかと、頼朝は口にしかけたが、言葉が続かない。
「妹が、父の命じるまま嫁いだゆえ、父の頭も冷えたのでございます。だからこそ佐殿は、もう伊東入道の影を気にすることもなくお過ごしになれるのです」
頼朝を救うために、聞く耳を持たぬ父の元で精一杯できる道を選んだ妹の意を汲[く]んでやってほしいと、祐清は言外に滲[にじ]ませる。
相分かったと、頼朝は先刻と同じ返事を、もう一度した。八重姫の犠牲の上にこれからの自分の安全があるという事実は、頼朝の胸を抉[えぐ]ったが、嘆いても、身もだえても、覆るわけではない。
いつまでも走湯権現と覚淵[かくえん]の世話になっているわけにもいかない。
(北条荘へ行こう)
頼朝は決意した。
女で問題を起こした流人が、どんな目で迎えられるか、考えると気は重い。
(朝日[あさひ]姫には軽蔑されそうだな)
苦笑したそのとき、けたたましい蝉[せみ]の声を撥[は]ね除けるように、
「佐殿」
背後から明るく弾んだ声が聞こえた。