テーマ : 連載小説 頼朝

第一章 龍の棲む国㉞【頼朝 陰の如く、雷霆の如し】

 頼朝[よりとも]は走湯権現[そうとうごんげん]へ「逃げてきた」のだが、「伊東氏は流人を逃がしてしまうような失態は犯していない」と言い張りたいのだ。

秋山香乃 山田ケンジ画(34)第一章 龍の棲む国(三十四)
秋山香乃 山田ケンジ画(34)第一章 龍の棲む国(三十四)

 だから、「北条氏の許しを得て参拝にきた」という頼朝の主張を、祐親[すけちか]はあっさり受け入れたのだと、祐清[すけきよ]は教えてくれた。
 「もう二度と伊東の地を踏まねば、北条荘で佐殿[すけどの]が何をしようと、父曰[いわ]く、『知らぬこと』とのことでございます」
 「相分かった」
 つまりは、もう走湯権現に隠れていなくともよいということだ。危機は脱した。だのに、少しも気が晴れず、屈辱感に苛[さいな]まれる。
 頼朝は一度、視線を上げて遠くを見、三歩ほど後ろに付いて歩く祐清を振り返った。
 「それで、八重[やえ]姫はどうしておるのだ」
 ずっと気にかかっていることを口にした。愛児を実の父にあんな形で殺され、一番傍[そば]で支えて欲しいはずの男は別の地に逃げた。どれほどの絶望感の中で打ちひしがれていることか。何とか、伊東から連れ出すことはできぬものか。
 頼朝の口から八重姫の名が出たとたん、祐清の顔が歪[ゆが]んだ。
 「……妹は、別の男に嫁がされました」
 頼朝の息が止まりそうになる。
 「それを八重姫は……」
 納得したのかと、頼朝は口にしかけたが、言葉が続かない。
 「妹が、父の命じるまま嫁いだゆえ、父の頭も冷えたのでございます。だからこそ佐殿は、もう伊東入道の影を気にすることもなくお過ごしになれるのです」
 頼朝を救うために、聞く耳を持たぬ父の元で精一杯できる道を選んだ妹の意を汲[く]んでやってほしいと、祐清は言外に滲[にじ]ませる。
 相分かったと、頼朝は先刻と同じ返事を、もう一度した。八重姫の犠牲の上にこれからの自分の安全があるという事実は、頼朝の胸を抉[えぐ]ったが、嘆いても、身もだえても、覆るわけではない。
 いつまでも走湯権現と覚淵[かくえん]の世話になっているわけにもいかない。
 (北条荘へ行こう)
 頼朝は決意した。
 女で問題を起こした流人が、どんな目で迎えられるか、考えると気は重い。
 (朝日[あさひ]姫には軽蔑されそうだな)
 苦笑したそのとき、けたたましい蝉[せみ]の声を撥[は]ね除けるように、
 「佐殿」
 背後から明るく弾んだ声が聞こえた。

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