テーマ : 連載小説 頼朝

第一章 龍の棲む国㉚【頼朝 陰の如く、雷霆の如し】

 伊東祐清[すけきよ]の話では、千鶴[せんつる]丸は腰に大きな石をくくり付けられ、簀巻[すま]きの状態で生きたまま、松川の上流の滝壺[つぼ]に投げ込まれたという。

(どれほど苦しかったか。せめて、苦しまぬよう逝かせてやる慈悲すらなかったのか)
 ぐっと、頼朝[よりとも]は手を握り込んだ。
 頼朝たちは、千鶴丸が放り込まれたという淵に、祐清を先頭に馬で向かった。伊東館から南方に一里ほど川を遡[さかのぼ]る。
 重しを付けられたのなら、骸[むくろ]はまだ淵の底に留まっているはずだ。頼朝は、引き揚げて手厚く葬ってやりたかった。
 疾駆する途中、頼朝の鼻を嗅ぎなれた匂いがくすぐる。橘[たちばな]の香りだ。
 これほどかぐわしく漂うのなら、近くに群生しているのだろうか。この道を少し前に千鶴丸も通ったのだ。ならば、この香りに反応しないはずがない。橘の香りは、千鶴丸にとって母の八重[やえ]姫の匂いでもあるのだから。
(きっと母を恋うて捜したはずだ)
 最後に橘の香りに包まれて、少しは恐怖も薄れたろうか。
 祐清の案内で滝壺までやってきた主従は、腰に縄をくくり付け、淵の中に潜った。
 「我らがやりますゆえ」
 頼朝まで潜ることはないと盛長[もりなが]が止めたが、わが子の捜索をただ見ているだけなどできようか。どれほど捜しても千鶴丸はどこにも見当たらなかった。ただ、もしかしたらこれがそうではないかと思える、縄の巻きついた石が見つかる。
 「縄がほどけております。きっと……流されてしまわれたのでしょう」
 盛長が、縄を握り締めて無念そうに呟[つぶや]いた。頼朝は涙をこらえ、川の先を凝然と見つめた。

 殺された千鶴丸の体は松川を下り、河口まで流れ着いた。いったん海に押し出されたが、波によって浜にあがった。そこを釣り人が見つけ、哀情に駆られるまま手厚く葬ったということだ。
 千鶴丸の小さな手には、遠く流されたというのに離れることなく、橘の枝が握られていたという。これは、愛児を求めて走る頼朝が嗅いだ、同じ橘の木を手折った枝だ。主君祐親[すけちか]に命じられ、殺さざるを得なかった郎党が、そのときにはまだ生きていた千鶴丸にせがまれて、渡してやった枝である。
弱水[じゃくすい](川)を渡った先に不老不死の常世の国はあるという。年中絶えぬ香りを漂わす時じくの香[かぐ]の木の実が生えていて、千鶴丸の母八重姫と同じ香りがする国だ。千鶴丸は、匂いに誘われて、弱水を渡ったかもしれない。
 (秋山香乃/山田ケンジ・画)

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