第一章 龍の棲む国㉔【頼朝 陰の如く、雷霆の如し】
わが子がこれほど可愛[かわい]いなど、実際に授かるまで、頼朝[よりとも]は知らなかった。

八重[やえ]姫も愛[いと]おしいが、今は千鶴[せんつる]丸と会うのが楽しみだ。数え三つの幼子は、見るたびに成長している。昨日までできなかったことが、今回はできる様[さま]に、つい心が弾む。
この日も頼朝は八重姫を訪ねた。
「おと様、おと様」
千鶴丸は頼朝に懐いていて、姿を見せると喜んでまとわりついてくる。抱きつく指の小ささはどうだろう。
この子を見ていると、自分は一生、起[た]つこともなく、この地に骨を埋めても良いとさえ思えてくる。
(もとより、源氏の再興など夢物語ではないか)
大切なものの順位は、すでに頼朝の中で入れ替わっていた。
―――このままここで平和に暮らしたい―――
そう願うことは、罪なのか。堕落なのか。
(私は駄目な人間だ……)
だが、戦うことがそれほど重要だろうか。家を再興することと、目の前にいる妻と子を守り慈しむことの、どちらが尊いとはっきり言える者がこの世にいるのか。
そう考えたとき、戦の最中で裏切る者たちの気持ちが少し分かった。あの者たちの幾人かは自分の命大事に形勢を見て動くのだろうが、幾人かは自分よりむしろ背後にいる守るべき者たちのために、卑怯[ひきょう]者の謗[そし]りを受けてさえ、生き延びる道を模索していたのだ。
そして、頼朝には、かつて父が藤原信頼[のぶより]と組んで、一か八か信西[しんぜい]排除に起った理由が、分かったような気がした。あのまま何もせずとも、源氏は落ちぶれかけていたのだから。
凋落し[ちょうらく]かけた家を、父は子や孫に渡したくなかったに違いない。ならば……。
(父は、この頼朝のために起ったのだ)
「…………」
ふいに、小さなため息が聞こえ、頼朝は現実に引き戻された。
頼朝の横で、八重姫が吐いたため息だ。
そういえば、艶のある瞳が今日はどこか憂いを含んでいる。
「どうしたのだ」
庭で遊びたがる千鶴丸を、頼朝は乳母たちに任せ、八重姫の顔をのぞき込んだ。
「父上が、もうすぐ戻って参ります。すでに都を出たとお文が届きました」
八重姫は濃いまつ毛に怯[おび]えを宿し、頼朝に告げた。
(秋山香乃/山田ケンジ・画)