第一章 龍の棲む国㉑【頼朝 陰の如く、雷霆の如し】

あの後も頼朝[よりとも]は音無[おとなし]の森に足を運んだ。伊東の中央を東西に割る形で、ほぼ南北に流れる松川沿いにこの森はある。水際の森は心地よく、ほっと息がつけた。
しょっちゅう森に通っていると、時おり八重[やえ]姫の姿を見かける。いつも侍女が一人か二人、姫を守るように従っていた。侍女の目を憚[はばか]ってか、八重姫にあの日のような大胆な振る舞いは見られない。少し、残念だった。
初めは挨拶[あいさつ]を交わす程度が、侍女も打ち解けてくるに従い、秋にかけて緑の実が黒ずんでいく椨[たぶ]の木の下で、二人の男女は距離を縮めていった。
「私、父上の館[たて]とは別に、この森の近くの館に、母と共に暮らしております。ここは、幼い時分からよく遊んでいて、庭みたいなものなのです」
この時代、男が女のもとを訪ねる通い婚、女を男の家に住まわせる嫁取り婚、夫婦が実家から独立して同居する婚姻の形とが入り乱れている。女の身分が極端に低ければ、男が屋敷を用意してそこへ通うこともある。
武士の台頭で社会の形が変化するのに伴い、人々の生活様式も日に日に変わっていく。
八重姫の母は嫡妻ではなく、祐親[すけちか]は通っているのだろう。
ある日、頼朝が神社に来ると、八重姫は一人きりだった。頼朝は驚いて侍女の姿を探す。
「今日はお屋形を抜け出して参りました」
八重姫はくすりと笑って、今ここには二人きりしかいないことを告げた。
頼朝は、己の中に湧き起こる「期待」をどうにか抑え込んだが、八重姫には腹が立った。
「なぜそんなことをなさるのだ。あの日も、姫の方から口づけるなど、まるで煽[あお]っているようではないか。私だったから良かったようなものの、他の男なら姫もどうなっていたか、分かりませんよ。男というものは……」
そこまで言って、八重姫が小さく震えていることに気付き、頼朝は黙った。
(これは、どうしたことだ)
沈黙が流れた。先に口を開いたのは八重姫の方だ。きゅっと形の良い唇を一度噛[か]み、
「佐殿[すけどの]は馬鹿[ばか]なのですか」
なじったのだ。
「いや、馬鹿と言われたのは生まれて初めてゆえ、おそらく違うかと……」
八重姫は眉根を寄せた。
「ほら、馬鹿ではありませぬか。そんなことを申しているのではありませぬ。どうしてこんな簡単なことが分からないのですか」
(秋山香乃/山田ケンジ・画)