掛川市吉岡弥生記念館 至誠貫天地(1931年)【美と快と-収蔵品物語㉓】

 医学部医学科のある全国81の国公私立大が実施した2021年度入試で、女性の合格率が初めて男性を上回った。城東郡嶺向村(現掛川市)出身で、東京女医学校(現東京女子医大)を創立した吉岡弥生(1871~1959年)は、この報をどう受け止めるだろうか。男尊女卑が根強い時代、不当な苦労を強いられながら女性医師の育成に専心した。同市吉岡弥生記念館には、弥生が生涯大切にした言葉「至誠」を表現した書が収蔵されている。

至誠貫天地 1931年 120×34.2センチ、絹本
至誠貫天地 1931年 120×34.2センチ、絹本
年賀状 1901年 14×9センチ
年賀状 1901年 14×9センチ
掛川市吉岡弥生記念館
掛川市吉岡弥生記念館
至誠貫天地 1931年 120×34.2センチ、絹本
年賀状 1901年 14×9センチ
掛川市吉岡弥生記念館

 

女性医師育成の信条

 

 弥生は進取の気性に富んだ漢方医である父の下で医師を志し、東京の医学校「済生学舎」に入学。1892年に日本で27番目の女性医師になった。故郷で開業した後、再び上京。診療の傍ら、医学の本場ドイツへの留学を目指した。女医学校創立は29歳の時。学生時代に女性であるがゆえに受けた差別や、母校が「風紀の乱れ」を理由に女子学生を締め出したことなどが、女性の社会的地位の向上に奔走する人生へと向かわせた。
 至誠は誠実さ、真心を意味する。夫荒太が指導していたドイツ語学校の名前に使われていて、弥生は東京で開業した病院名にした。生前、「常住不断私が患者に接する時の根本的心構えを言い表したもの」と語っている。さまざまな節目にこの2文字を含めた書を教え子や知人に贈った。
 「至誠貫天地」は還暦の時、かつて弥生の下で働いていた女性に宛てた。女性との関係性について詳しいことは分かっていないが、記念館へ寄贈した女性の息子によると、父親を亡くした女性が結婚する際には、弥生が親代わりとなって嫁入り道具をそろえたとされる。孫の医学部合格に喜んだ女性が、初めて家族にこの書を見せたのだという。学芸員の伊藤由李奈さん(29)は「状態が良く、贈られた方が大切に保管していたことが分かる。2人の関係の良さが伝わってくるよう」と思いをはせる。
 ほかにも「至誠一貫」「至誠如神」などの書も残る。こうした弥生の信条は東京女子医大の理念「至誠と愛」として現代に受け継がれている。

 

旧姓 強い意志の象徴 年賀状 1901年

 

 吉岡弥生は1895年にドイツ語学校で知り合った荒太と結婚した後も、長男を出産するまで旧姓の鷲山を名乗っていた。同郷で中国人留学生の教育に尽くした松本亀次郎(1866~1945年)に1901年、夫婦連名で送った年賀状が示している。
 弥生の父親が荒太を婿として迎え入れたいとの思いがあったことも一因だが、医師「鷲山弥生」の名が知られるようになっていたことが大きいとみられる。出産は02年。その様子を勉強のために学生に見学させたとされる。
 伊藤学芸員は「強い意志を持ち、懸命に過ごしていたことがうかがえる」と話した。



 

掛川市吉岡弥生記念館


 掛川市下土方474。1998年11月、吉岡弥生が生まれ育った地に開館。弥生の生涯を、医師となって結婚するまでの1871~1900年、医師を志す女性の道を切り開いた01~47年、東京女子医大を開学してから晩年までの48~59年の三つのステージに分けて紹介しているほか、医学・看護に関する情報も展示している。移築した生家もある。「至誠貫天地」は開催中の、郷土の人々との交流を伝える展示「吉岡弥生を支えた郷土の人びと」で見ることができる。

 

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