静岡新聞のアーカイブから、ママ読者の反響が大きかった記事を紹介します。今回は、連載「大陸の花嫁」の最終回です。
終戦から81年。戦争体験者は少なくなり、聞き取りは年々難しくなっています。私たちの祖父母や曽祖父母が生きた時代の記憶を、今を生きる子どもたちに語り伝えることは、ただ歴史を教えることにとどまらず、日常の当たり前に向き合い、見つめ直すことにつながるはずです。
この苦境を伝えるために生きる。逃避行を生き延び、父の遺言を守った女性
「たとえ一人になっても日本へたどり着き、満州の実情を伝えるんだ」。満州からの逃避行体験「無告の大地」(1996年)の筆者寺田ふさ子さん(87)=磐田市中泉=の脳裏には、父政雄さん=当時(42)=の遺言が焼き付いている。竜山(りゅうざん)福田開拓団の幹部で、竜山開拓女塾(じょじゅく)指導者だった父の遺志をくみ開拓民の悲劇をつづった。自宅の本棚に並ぶ著書を手に取ると、当時の記憶がよみがえる。
44(昭和19)年5月、父に連れられ母、弟、妹と竜山(現中国吉林省鎮賚県)に渡った。現地の国民学校で教員になり充実した日々を送っていたが、45年8月8日、日ソ中立条約が破棄され、ソ連軍が満州に侵攻した。中国人の反日感情も高まっていた。早々と撤退する関東軍と役人たち。孤立した開拓団はポツダム宣言受諾の翌15日、脱出を決めた。
内地に開拓団の苦境を伝えるために生きよう―――。この夜、家族はそう誓い合った。
16日早朝。開拓団約400人は中国側の銃弾が耳元をかすめる中、地平に続く広野を必死に走った。
3日目の夜、走り疲れたふさ子さんが線路の枕木に頭を乗せ休息していると、駆け寄ってきた男性に血の付いた拳銃を手渡された。もしものためにと父から使い方を教わっていたもので、「これがお前の手に届いたらお父さんは死んだと思ってくれ」と事前に言い渡されていた。女塾生らを守るため集団の最後尾で防戦していた父は腹部を負傷し、最期は自ら拳銃でこめかみを撃ったという。
心の支えを失ったふさ子さんは声を殺して泣いた。父を追って死のうとも考えたが、出発前の誓いを思い出し前に進むことを選んだ。逃避行は9日間に及んだ。
新京(現長春市)の中国側の警察に炊事係として勤めながら1年を過ごし、46年に帰国。父との約束を果たそうと、すぐに壮絶な記憶をちらしの裏に書き留め始めた。
団員の家を回り出版の許可を求めた。傷ついた心を逆なでするようで気が引けたこともあったが、「満州で起きたことを誰かが書かないといけない」との団員の声に背中を押された。出版後は県内各地で講演し、現地での日々を語った。
「お父さんとの約束は守れたかな」。天国の父に読んでもらうため、手元の1冊は自分のひつぎに入れてもらうつもりだ。
満州開拓団と女塾をめぐる年表
戦争体験を伝える高校社会科教諭 生徒は「自分なら参加しただろうか」
県立小笠高の社会科教諭中山敬司さん(50)は戦争体験を後世に伝えるため、関係者への聞き取りに取り組んでいる。7年前、ふさ子さんと女塾生にビデオインタビューし、当時勤務していた県立掛川東高での授業で使った。元女子校で、全校生徒の半数以上を女子が占めていた。国のために青春をささげた同年代の女性の身になって戦争を見詰めてもらいたかった。
教室のテレビに流れるふさ子さんらの重い語り口に生徒は静まり返った。平穏な満州での生活に忍び寄る戦争の影と決死の逃避行。授業後の感想には「胸が苦しくなった」「自分だったら女塾に参加しただろうか」と悲痛な思いが並んだ。
戦争体験者は少なくなり聞き取りは年々難しくなっている。「若い世代への記憶の継承は教員が媒介するしかない。受験勉強も大事だが、国策に翻弄(ほんろう)された一般国民の歴史を忘れてはいけない」。言葉に力を込めた。
(大須賀伸江、柿田史雄、浅井貴彦が担当しました)
竜山開拓女塾を授業で取り上げた中山敬司教諭。若い世代への戦争体験の継承に力を入れる=2015年2月2日、菊川市東横地の県立小笠高
2015年02月13日<轍~しずおか戦後70年×こちら女性編集室(10)=大陸の花嫁(4完)-語り継ぐ 血と涙の記憶>のタイトルで静岡新聞夕刊「こち女(じょ)」欄に掲載した記事を再掲しました。肩書や年齢なども掲載当時のままです。
「こち女」は「こちら女性編集室」の略称です。女性活躍推進の機運が高まり始めた2014年10月から2022年3月まで静岡新聞夕刊の特集面を中心に展開しました。









