静岡新聞のアーカイブからママ読者に反響の大きかった連載の第3回を紹介します。
今から80年以上前、三島の女子学生が描いたポスターにこう書かれていました。「広野に愛の柱を立てよ」
国が宣伝したロマンチックな「花嫁」像とは裏腹に、彼女たちを待ち受けていたものは―――。現代を生きる私たちにとっても遠い昔の他人事ではありません。
満州に定住する家族を増やす 国の移民推進計画のため集められた花嫁
「広野に愛の柱を立てよ」と記された手書きのポスターがある。1939(昭和14)年ごろ三島高等女学校3年生が描いた、満州の開拓移民に嫁ぐ「大陸の花嫁」を募るポスターだ。美名をうたった標語の書き手も、花嫁たちがたどるその後の運命など知る由もなかった。
三島高等女学校の生徒が描いた「大陸の花嫁」募集のポスター(沼津市明治史料館所蔵)
満州国で日本人の定住家族をいかに増やすかは、国の基盤に直結する課題だった。広田弘毅内閣は36年、20年間で500万人を満州に入植させる移民推進計画を国策とし、入植した男性に嫁ぐ花嫁を送り出そうと動き出した。16カ所の開拓団内に女塾(じょじゅく)が設けられ、本県は竜山(りゅうざん)福田開拓団内に「竜山開拓女塾」が設けられた。
4期にわたって県中西部を中心に20歳前後の124人が渡り、半年の勤労奉仕に励んだ。主に期間を延長してとどまった人には見合い話があり、このうち約30人が現地の団員と結婚したとする資料もある。
元塾生たちに話を聞くと、各種資料が示すほど「花嫁になる」との意識は感じられず、国策とは温度差がある。
特に3期生が渡った44年(同19年)ごろは戦況の悪化に伴い開拓団員の召集が進み、見合いどころではなくなっていった背景もある。実際、塾生たちは男性に代わる貴重な労働力になっていた。
満州国で農作業に精を出す竜山開拓女塾の塾生。土地は肥沃(ひよく)で作物がよく実ったという
半年間の塾生生活を送った3期生渡辺百枝さん(86)=松崎町岩科、当時(16)=は「出兵のつもりで満州に渡り、がむしゃらに働いた」と振り返る。午前4時に起床。草刈りや畑仕事に精を出し、真っ赤な太陽が地平線に沈むころ、歌を歌いながら宿舎に戻る―女塾生たちはそんな日々を続けていた。
いつでも戦えるよう、自決できるよう。男装して銃を持ち走り続けた
戦況が悪化しても女塾生の募集は続き、終戦間際に渡った4期生は敗戦直後の混乱に巻き込まれた。沼津市出身の川崎かね子さん=故人、当時(25)=は決死の逃避行を経て46年に帰国。その後は菊川市などで暮らした。複数の手記に女塾での体験談を残している。終戦1週間前のソ連の宣戦布告を受け、竜山を出た。中国人の襲撃から逃れるために、坊主頭にし、男性用の団服に身を包んだ。
いつでも戦えるよう、自決できるよう―。銃を持ち、草原を走り続けた。後年、手記で「食べ物もなく栄養失調で亡くなる人もいた。よく生きて帰れた」と回顧している。
女塾生124人のうち、引き揚げ途中に倒れるなどして、現地で13人が命を落とした。数人は行方不明のままだ。帰国の機を逃し、残留婦人として、72年の日中国交回復を経るまで暮らし続けた塾生もいた。
帰国した彼女らは全国各地に散らばり、それぞれの人生を歩んだ。2005年まで20回以上、毎年親睦会を開いて旧交を温めた。
「あの時」見た真っ赤な夕日、かれんな花、草原の匂い、開拓団の生き生きとした人々のやりとり、そして銃弾が飛び交う中を走り続けた内地への帰路。
特別な場所で運命を共にした者同士にしか分からない、鎮魂の会だった。
2015年02月12日<轍~しずおか戦後70年×こちら女性編集室(9)=大陸の花嫁(3)-戦況悪化後も宣伝継続>のタイトルで静岡新聞夕刊「こち女(じょ)」欄に掲載した記事を再掲しました。肩書や年齢なども掲載当時のままです。
「こち女」は「こちら女性編集室」の略称です。女性活躍推進の機運が高まり始めた2014年10月から2022年3月まで静岡新聞夕刊の特集面を中心に展開しました。
































