静岡新聞のアーカイブから、ママ読者の反響が大きかった連載「大陸の花嫁」の第2回を紹介します。19歳で満州へ渡り、終戦直後の壮絶な逃避行を生き延びた紅林ことさんのその後の話です。
終戦から30年近く経った1974年、牧之原市の紅林家に手紙が届きました。「吉林省で結婚し、1男3女の母になっています。早く帰りたい」。差出人は、満州で死んだと思われていたことさん。町は騒然となりました。
中国人一家に嫁いだことさん。わが子は「日本鬼子」といじめられるも夫に救われ
「父さんお元気ですか。吉林省で結婚し、1男3女の母になっています。早く帰りたい」。1974(昭和49)年の年末、満州で死んだと思われていた竜山(りゅうざん)開拓女塾(じょじゅく)2期生、紅林ことさんから相良町(現・牧之原市)の紅林家に一通の手紙が届き、町は騒然となった。日本は高度経済成長を終え、新幹線は東京―博多間を結ぼうとしていた。51歳になっていたことさんの帰国を支援した久保みつさん(85)=同市大江=は「皆で苦しみを乗り越えてきた時代を、異国で一人生きてきたことさんが、気の毒だった」と振り返る。
ことさんは、助けてくれた中国人一家の嫁になった。そうするしか生きる手段がないと思って、諦めの気持ちだった。日本人への風当たりは厳しかった。地域で共有している物がなくなればことさんのせいにされ、子どもは「日本鬼子」といじめられた。娘が小刀で額を切られたこともある。
竜山開拓女塾時代の紅林ことさん(右から3人目)
救いは夫だった。引っ越しをして子どもを守った。ことさんが嫁の仕事とされた靴作りができなかったため、いつもぼろぼろの靴を履いていた。生活は貧しく、「瀕死(ひんし)の自分によくおかゆを食べさせてくれた」と恩義を感じた。夫がなぜ日本人の自分を妻にしたのか、ふと疑問に思うこともあった。「何もできなかったころから手を上げられたことは一度もなかった。いつもそばで見守ってくれた」。愛情を実感し、家族は「温かい宝物」になった。
日中国交回復で実現した一時帰国。「浦島太郎の気分」…心は揺れ動いた
72年に日中国交が回復した。「手紙を書きなさい」。訪ねてきた公安局の関係者に促され、ことさんは30年ぶりに実家に手紙を書いた。すぐに返事が来て、一時帰国が決まった。出発前夜、夫と子どもたちは「敗戦国が今どうなっているか分からない」「必ず帰ってきて」と念を押した。相良の海岸から毎日のように見ていた富士山が飛行機の窓から見えると、涙が止まらなかった。
蛇口から水が出て、こんろのつまみをひねると火がつく。ことさんが「浦島太郎の気分だよ」と繰り返したのを、訪ねた多くの人が覚えている。
80歳を超える父から「ここにいなさい」と強く言われ、半年の滞在予定は延長を重ねた。しかし、中国で待つ家族の顔が浮かび、ことさんの心は揺れていた。
1年3カ月後、ことさんは中国に戻った。同窓会などの集まりや生活面の支援を担った久保さんは、別れの朝、泣きそうな顔で手を重ねる2人の写真を大切に持っている。
久保さんは中国の切手を買ってことさんに送り、文通を続けた。「日本でお世話になりました」。50通に上る手紙には毎回、お礼の言葉がびっしりとつづられていた。
ことさんは夫の死去後の95年、「日本に一緒に行ってもいいよ」と言ってくれた長男と永住帰国した。一時帰国の時の騒ぎがうそのように、静かな日々だ。
「ことちゃん、来たよう」。菓子を手に訪れた久保さんを迎えたことさんは、「みっちゃ、久しぶりじゃん」とほほ笑んだ。
静岡弁の中に、中国語の発音や中国式に指折り数えるしぐさも交じり、大陸で過ごした半世紀の重みがにじむ。
「今幸せだよ。耳が遠くなったけどね。褒め言葉だけは聞こえるからいいよ」と目を細める。自室の壁には、夫の大きな写真が掲げられている。
あれから70年。「敵国の国民を助けるなんて、日本人にできるかな」。短い言葉で、海の向こうの恩人たちに思いをはせる。
海の向こうに富士山が見える浜辺は、紅林ことさん(右)と久保みつさんにとって故郷の象徴だった=1月下旬、牧之原市の太田浜海岸
2015年2月10日<轍~しずおか戦後70年×こちら女性編集室(8)=大陸の花嫁(2)-苦難と絆揺れた半世紀>のタイトルで静岡新聞夕刊「こち女(じょ)」欄に掲載した記事を再掲しました。肩書や年齢なども掲載当時のままです。
「こち女」は「こちら女性編集室」の略称です。女性活躍推進の機運が高まり始めた2014年10月から2022年3月まで静岡新聞夕刊の特集面を中心に展開しました。









