【第175回直木賞候補作品から(4)凪良ゆうさん作『多類婚姻譚』】2020年代の日本社会という「水盤」に、ぽたりぽたりと落とされた恋愛の水滴と波紋

静岡県のアートやカルチャーに関するコラム。7月15日発表の第175回直木賞の候補作品を紹介する不定期連載第4回。凪良ゆうさん作『多類婚姻譚』(講談社)を題材に。
(文=高度専門記者兼論説委員・橋爪充、写真=写真部・久保田竜平)

現代日本の恋愛と結婚について、当事者の周囲の諸問題を提示しながら五つの短編に仕立てた。各編には「大手食品会社」に勤める社員がどこかに登場していて、彼ら彼女らが糸のようになって、それぞれの物語の端っこを縫い止めている。

セクハラ、パワハラ、ミソジニー、妊活、同性婚、パートナーからの搾取、グルーミング、不倫、離婚―。異性同士、あるいは同性同士の間に横たわる、ありとあらゆる問題を取り上げる。2020年代の日本社会における、結婚と恋愛の困難さがリアルに伝わる。

大手食品会社の課長職に30代で抜擢された小暮華は、自分の恋人を初めて実家に連れて行き、家族の無理解と偏見に暗澹とさせられる。派遣社員の野々村花織は同じ会社の正社員と交際しているが、キャリア格差のある相手が自分を軽んじていることに気付く。夫の浮気とその相手の妊娠を機に離婚を決めた40代の佐々木一葉は、甲府市にある家業の書店を継ぎ、似た境遇の男性に出会う。

高度に管理された静謐な水盤に、ぽたりぽたりと水滴を落としていく様を思い描いた。さまざまな恋愛模様が重なり合い、共鳴し合っている。ジェンダー格差の是正や社会的公正性が少しずつ実現してはいるものの、この社会の基礎部分はいまだに「男性ありき」で設計されている。そのことを強く意識させられる。

2020年代の日本における恋愛、結婚、出産、子育ての難しさを示唆する記述が次々繰り出される。

「ほしくないわけじゃないけど、できたらできたで大変だから、そもそも作らないって人も最近多いよね。わたしたちみたいなキャリア組は仕事に支障が出ないようにタイミングを見極めなくちゃいけないし、じゃなかったら旦那がある程度稼いでくれてないと経済的に苦しくなる」(20ページ)

ありふれた人生設計だと思う。けれどそのありふれた人生を外れずに生きていくことの困難さといったらどうだろう。互いにフルタイムで働き、子供を作り、高騰するばかりの都内にマイホームを買い、信じられないほど高額な塾に子供を通わせて受験をさせ、自身のキャリアも積み上げ、住宅ローンと教育費を払い終えたあと、やっと自分たちの老後資金作りに本腰を入れる。そのころにはあと数年で定年退職の年齢に-。(196ページ)



本作を読み通して不思議なのは、これだけビターな内容なのに「こんな環境下で恋愛するなんて、めんどくさい」という気持ちにならない点だ。人と人が結びつき、将来を共に考える尊さが浮かび上がってくる不思議。それは、恋愛の不思議そのものと相通じるところがある。

「恋愛」は理屈じゃない。人を好きになることに理由なんかいらない。そんなちゃぶ台返しのようなメッセージが、本作の本質のように思えてならない。最終話『C'est la vie』の意外すぎる着地点が、心の奥底にしまった淡い記憶をよみがえらせる。


静岡県に関係する文化芸術、ポップカルチャーをキュレーション。ショートレビュー、表現者へのインタビューを通じて、アートを巡る対話の糸口をつくります。

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