富士山宝永噴火で埋没の集落か 焼けた家屋の柱発見 小山町須走

 小山町須走地区で、1707年の富士山宝永噴火の火山灰で埋没した家屋の一部が初めて発見された。7日までの町への取材で分かった。町に伝わる古文書には、当時の須走村全体が埋まったとの記述が残る。町の担当者は「1軒だけ埋まっていることはありえない。集落が埋まっている」とみている。

宝永噴火の火山灰で埋まった家屋の一部が見つかった試掘現場=2019年6月、小山町須走(町教育委員会提供)
宝永噴火の火山灰で埋まった家屋の一部が見つかった試掘現場=2019年6月、小山町須走(町教育委員会提供)
見つかった家屋の柱。直径約10センチで、焼けて黒くなっている
見つかった家屋の柱。直径約10センチで、焼けて黒くなっている
宝永噴火の火山灰で埋まった家屋の一部が見つかった試掘現場=2019年6月、小山町須走(町教育委員会提供)
見つかった家屋の柱。直径約10センチで、焼けて黒くなっている

 町などが昨年6月に実施した埋蔵文化財の試掘調査で、地下約2メートル地点に焼けて黒くなった家屋の柱2本が見つかった。かやぶき屋根の一部とみられる炭化物、家屋の礎石か階段だった可能性がある石列、畑の畝も発見された。
 町生涯学習課によると、噴火によって家屋が焼失したことと、堆積した火山灰の上に町がつくられたことが裏付けられた。家屋と畑との位置関係から、村の表通りは現在の地区の幹線道路とほぼ同じ位置にあったことも分かった。
 家屋の柱が見つかったのは宝永噴火でできた地層の下層部で、噴火直後に飛来したとみられる軽石の中。その上には、火山灰やスコリアなどが1メートルほど積もっていた。噴火直後に熱を持った軽石が飛来して発火し家屋が燃え、その後降った火山灰で残りの家屋が押しつぶされたと考えられるという。
 須走村は火口から約10キロ離れている。町教育委員会の金子節郎学芸員(49)は「家屋が燃えてしまうほどの噴出物が飛んできたことを教訓として生かしたい」と強調する。
 2017~18年に東京大と東京工業大のチームが地中の埋設物を調べるレーザー探査を実施。家屋が埋まっていると推定された箇所に町道整備の計画があり、試掘調査に踏み切った。店舗があった敷地の一部を重機や人の手で掘った。
 さらに調査を進めれば当時の村の様子がより詳細に判明し、焼失した家屋と倒壊した家屋を比較し新たな知見が得られる可能性もある。ただ、文化財保護の観点から追加調査の予定はなく、試掘現場は保存した状態で埋められた。金子学芸員は「(発見を手掛かりに)須走の歴史を解明する。発掘は次の世代に託したい」と話している。

 <メモ>須走村 富士山須走ルートの起点となる冨士浅間神社の門前に広がっていた集落。町に残る複数の古文書によると、宝永噴火で2~4メートルほどの火山灰が積もった。37棟が焼失し、残りの38棟は押しつぶされた。その後、火山灰の上に現在の須走地区の原型となる町が作られたとされる。地区では過去に噴火当時の物とみられる鉄鍋や石臼が発見されていた。宝永噴火で埋没した家屋は、御殿場市中畑の長坂遺跡でも見つかっている。

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