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<東京五輪再び 県勢メダリストの思い(6・完)>杉山隆一さん

(2013/9/15 07:40)
すぎやま・りゅういち 清水袖師中時代にサッカーを始めた。19歳で日本代表入り。明大卒。現役引退後はヤマハ発動機(現J1ジュビロ磐田)監督も務めた。静岡市清水区出身。藤枝市在住。72歳。
すぎやま・りゅういち 清水袖師中時代にサッカーを始めた。19歳で日本代表入り。明大卒。現役引退後はヤマハ発動機(現J1ジュビロ磐田)監督も務めた。静岡市清水区出身。藤枝市在住。72歳。

 “黄金の左足”で前東京五輪の8強入りに貢献。1968年メキシコでもアシストを量産し、銅メダルを獲得した。「弱小国」とみられていた日本サッカーが快進撃を遂げた原動力になった。

 ―五輪を意識したのはいつから。
 「清水東高時代、卒業後は社会人にとも考えたが、当時の代表監督の高橋英辰さんが『東京五輪がある。大学でプレーしてほしい』と清水の家まで来て直接言ってくれた。あの頃は社会人より大学のレベルが高かった」

 ―自身にとって、前回の東京五輪とは。
 「関西の大学に魅力を感じ、進学がほぼ決まったが、周囲に関東の方がいいと勧められた。推薦で立教を受けたが、失敗した。大人なんて信用できない−と悔しい思いをしたのを覚えている。1年間の浪人生活になった。その間、勉強もしながら、社会人チームや母校のお世話にもなり、サッカーを続ける環境を何とか維持できた。振り返れば、長い人生で一浪はわずかな間。でも、『数年後、東京に五輪が来る』という思いが私を支えていたというのが事実だ」

 ―国際経験の少ない当時の代表が、どうして勝てたのか。
 「最初に40〜50人が集まって千葉の検見川で長期間合宿し、じっくりふるいにかけられた。居残り練習でガマ(日本サッカー協会顧問釜本邦茂氏)と何度もけんか腰で言い合った。だから『あうんの呼吸』が生まれた。それと、あの時代に海外遠征までさせてもらった。支援体制が充実したという意味で東京五輪が日本のサッカーを変え、次のメキシコの銅にもつながった」

 −最近の代表や若い世代をどうみるか。
 「海外のクラブの選手が増えたが、逆に、あうんの呼吸を醸成するチャンスは減った。今の代表で絶妙なコンビは本田圭佑選手と香川真司選手くらいか。私の若い頃と違い、Jリーグの環境も整い、子供たちが夢や希望を持てる。東京五輪という大きな目標もできた。もっともっと目の色を変えて頑張ってほしい」

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