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2時のうんちく劇場
2時のうんちく劇場
函南が生んだ元祖うんちく王杉村喜光さんが、その日にあったうんちくを紹介します。

2016年3月24日 17:22

2時のうんちく劇場

2016年3月24日  最終回

実は本日「2時のうんちく劇場」は最終回です。
らぶらじ開始当初、2007年4月から丸9年間、本日で1836回で最終回です。
という事で「最終回」についてお話をしたいと思います。


昔のアニメの最終回は律儀な物が多く、1967年のアニメ「オバケのQ太郎」の最終回は「今日まで応援ありがとう、来週からは僕の友達、パーマンが活躍するよ」と番組引き継ぎをやっています。
実はオバケのQ太郎のアニメ自体は視聴率が良かったのですが、関連グッズの売り上げが落ちてきたということで新たなアニメ、同じ藤子不二雄作品「パーマン」に引き継ぐという、大人の事情が絡んだ最終回だったのです。


他に律儀と言えばアニメ「巨人の星」の最終回は、完全試合を成し遂げ倒れた星飛雄馬を父親の星一徹が背負って去って行く感動のラストだったのですが、エンドマークが出た直後、いきなり登場人物が並び「3年半に渡り、ご好評をいただきました「巨人の星」は今回で終了させていだきます。
長い間ご覧頂きまして、ありがとうございました」と律儀に挨拶して終わっています。
と次の瞬間、画面にバカボン一家が登場して握手し、星飛雄馬が「バカボン君、僕に変わって来週からよろしく頼みますよ」「もちろんなのだ」と挨拶をして終わっています。


逆に最終回を作ったけど放送されなかった作品もあって特撮番組「ウルトラQ」は小山内美江子さんが脚本を書いた「あけてくれ」という作品だったのですが、ちょっと難しすぎるという理由で、子供がついてこれない最終回を放送したら翌週から始まる「ウルトラマン」の視聴率に差し障ると判断され、「ウルトラQ」最終回は放送されず「ウルトラマン前夜祭」というバラエティ番組が放送されています。
他には初代の「ルパン三世」や「デビルマン」も野球中継の関係で放送されずに終わって、再放送で初めて放送されています。


ほとんどの人が気付かなかった最終回は1981年から1987年まで放送されていたアニメ「忍者ハットリ君」です。
最終回はいつも通りの話で、そのラストに猫の影千代が「おわり」と描いたプラカードを持っているだけというアッサリとした物でした。
そして視聴者の子供達がまったく最終回に気がつかなかったのは、そのまま同じ時間で何も告げずに再放送が始まったからです。
6年前の再放送なので子供達はほとんど初めて見る作品だったので気付かず、そのまま一年半再放送が続いていったのです。

2016年3月23日 17:35

2時のうんちく劇場

2016年3月23日  俳優:天本英世

2003年3月23日:俳優・天本英世さんが77歳でお亡くなりになりました。
テツさんの世代だと、仮面ライダーの死神博士で強烈な印象を残したかと思いますが、様々なアクの強い役を演じ続けた名優でした。


終戦から3年後に東京大学に合格して、法学部政治科に通って国際政治学などを学んでいたのですが、戦後政治に失望して、文学や演劇にのめり込んで、大学を中退して俳優座に所属しました。


俳優になってすぐ映画「二十四の瞳」で主演・高峰秀子さんの旦那さん役に抜擢されています。
長身でひょうひょうとした所が抜擢の理由だったのですが、それまで舞台の芝居しかした事が無く「台本を他の人の分まで含めて全部記憶しないと演技が出来ない」と考えていたことから、映画撮影で順番関係なく部分的に断片的に撮影する方法で監督の木下恵介さんとぶつかり、大幅にセリフや出番を減らされています。


その後、様々な役をこなし、徐々に怪しげな風貌になっていき、1972年「仮面ライダー」の「死神博士」という当たり役に出逢います。印象としてはかなりのオジイチャンだったのですが、あの時点で天本英世さんはまだ46歳でした。


この役が余りにハマっていた事から、その後「代表作」としてインタビューのたびにその話を振られるのにウンザリして、名前が出ると途中で帰ってしまうこともあったそうです。
街中でもファンから声を掛けられ「死神博士が今でも好きなんです」と声を掛けられると「キミみたいな年齢の人間がいつまでもそんな事を言っているのは感心せん」と説教をしたそうです。でも、それぐらいにハマっていて子供達に強烈な印象を残したのです。


天本英世さんによく似ていると言われたのが映画監督の岡本喜八さんで、あるときはロケ中に小学生に囲まれてしまい、困惑した末に死神博士のふりをしてその場をやり過ごしたそうです。
岡本喜八さんは映画「ジャズ大名」で天本英世さんのために重要な役を準備したのですが、スケジュールの都合で出演出来なくなったため、自分がその役を演じた事もあったそうです。


天本英世さんは住居に関してはほとんど興味が無かったみたいで、晩年は友人の自宅二階を無料提供されてそこに棲んでいたそうです。
しかし仕事が無いときに昼間もゴロゴロしていると迷惑だと思って、ホテルのロビーやレストランに入り浸って時間を過ごしていたそうです。
その部屋には電話も引いてなかったので、連絡が取りたいときはレストランに電話を入れて、折り返しの電話を待つようになっていました。


服装にもこだわりが無かったそうで、スペイン旅行をしていた時には、疲れて路地に座っていた所、通りかかった老婆から小銭を恵まれてしまったこともあるそうです。

2016年3月22日 17:23

2時のうんちく劇場

2016年3月22日  ラジオ

91年前:1925年3月22日:社団法人東京放送局(現:NHK放送センター)がラジオ試験放送を開始。


ラジオ放送の元祖はアメリカで1920年に始まっていますが、それから5年後に日本でもスタートしています。
当時としてはアメリカの最先端技術が5年後に日本で始まるというのはかなり早いのですが、その理由は、1925年の2年前に関東大震災が発生して、数々のデマが飛び交ったことから「迅速に正しい情報を伝えるためにはラジオが必要だ」と政府が考えて、ラジオ放送を導入したのです。


そして91年前の今日、初めてラジオの試験放送電波が放送されました。試験放送なので聞いていた人は極一部の関係者だけだと思われがちですが、実はこの段階で非合法ですが趣味の無線放送をやっている人がそこそこの人数いて、当時中学生で後にソニーを創業することになる井深大Iいぶか・まさる)少年もいたそうです。
そして、歴史的な試験放送第一声は男性アナウンサーの声で「あ〜あ〜聞こえてますか?」というマイクテストの声がそのまま電波に乗ってしまったものだったそうです。


災害の時に役に立つということでラジオを始めたのですが、事件もない平和な時に何をしたらいいのか解らなかったことから、番組開始早々「リクエストアワー」を始めています。
リクエストアワーといっても曲を掛けるというものではなく、視聴者から「何をやったらいいのか」というリクエストを募る番組だったそうです。
音楽のリクエストも多かったのですが、今と違ってどんな曲でもレコードなどになっている時代では無かったので、スタジオには常にピアノ演奏者と歌手が準備していて、要望に応えていたそうです。
さらに当時はゆるゆるにやっていたので、とりあえず夜9時に放送終了になる予定でしたが、リクエストが多い時はずるずる延長して10時過ぎまで放送することもあったそうです。


放送開始から3年後、NHKが全国放送網というシステムを作り上げ、全国同時生放送を可能にしました。
というのもその1928年(昭和3)11月に昭和天皇の即位の礼が執り行われたことから、それを全国中継するためだったのです。


その後、NHKラジオは凄い放送スタイルを完成させます。
昭和10年、NHKで放送作家をやっていた並河亮(なみかわ・りょう)さんが、軽妙なおしゃべりと音楽を流す番組を始めたのですが、喋りながら自分でレコードを次々と掛けていくスタイルです。
それをアメリカのニューズウィークが「鮮やかな手つきでレコードを次々掛けていく姿は競馬の騎手のようだ。
これはディスクジョッキーとでもいうスタイルだ」と記事にしています。
ここからディスクジョッキーという名前が誕生し、アメリカの放送曲でも一般的なスタイルになっていったのです。

2016年3月21日 16:45

2時のうんちく劇場

2016年3月21日  卵・玉子

本日は春分の日ですが、それと同時に「命を宿す卵は、生命が芽生える春分の日にふさわしい」ということで卵の業界が「3月21日は卵の日」としています。


日本人はとにかくタマゴが大好きな国民で1年間に食べる卵の量は、農林水産省調べで平均320個だそうです。
1週間に6個食べている計算です。
それでも世界一位ではなく、ブラジルの方が食べているそうです。


そしてタマゴにはサイズはありますが、これにも地域差があって、東京ではLサイズとMサイズがよく売れ、大阪では圧倒的にLサイズが売れるそうです。
そして派手好きとよく言われる名古屋では何故か小さめのMサイズともっと小さいMSサイズが一番売れるそうです。


日本でタマゴが大量消費される理由の一つに「玉子かけご飯」があります。日本の朝食というイメージですが、ご飯にタマゴを掛けて食べ始めたのは明治時代になってからで、しかも最初は「洋食」という扱いでした。
玉子かけご飯を世の中に広めたのは、明治時代に東京日日新聞の編集長をしていた岸田吟行です。
明治10年頃に「家庭で簡単にできる洋食」の一つとして考案され、新聞で発表されています。
そのレシピは、円筒状の容器に卵を割り入れカクテルのようにシェイクした物を、皿に盛ったライスにかけて食べる、というものでした。


卵の黄身の色が濃いと栄養価が高そうな気がしますが、それは間違いです。
与える餌によっていくらでも濃い色を出す事が出来るそうです。
そしてタマゴの殻にも白と赤がありますが、これも基本的に栄養素はそんなに違いは無いそうです。
殻の色の違いは鶏の違いで、一般的な白いタマゴは白色レグホンで、赤いタマゴはハーバードコメットなど何種類かいるそうで、他にはアローカナというニワトリは青いタマゴを生むそうです。
鶏によって生むタマゴの色が違っているのは、その鶏の野生種が棲んでいた場所に関係していて、白いタマゴは砂地に、赤いタマゴは赤茶けた岩場、青のタマゴは草原地帯に棲息していたという違いがあります。


生卵というと即効性の栄養ドリンクだと思っている人もいて、これは江戸時代の遊郭から始まった迷信です。
江戸の吉原遊郭にはタマゴ売りが出現し、多くの男性が一気飲みして吉原に入っていったそうで、当時の川柳にも奥さんが旦那に頑張って欲しいと願うものが多く《玉子割り/飲ます女房の/下心》《もう一つ/お吸いねぇと/生玉子》なんて物がありました。
しかし医学的に考えると、即効性の栄養ドリンクではないみたいです。
でもお酒を飲む前に生卵を飲んでおくと、タマゴに含まれる脂肪分によってアルコールの吸収を抑える事が出来、酔いの回りが遅くなるそうです。

2016年3月17日 17:24

2時のうんちく劇場

2016年3月17日  名前に関した話

近年「夫婦別姓」の議論がよく話題になっていますが、140年前の今日、1876年(明治9年)3月17日、太政官指令で「婦女は結婚してもなお所生の氏を用いること」というお達しがされました。


どういう意味かというと、女性は結婚しても生まれた時についた苗字をそのまま名乗りなさい」という物、いわゆる夫婦別姓の法律が発布されているのです。


1876年に夫婦別姓が出された背景には、その前年に明治政府が「平民はそれまで苗字という物を正式に持っていなかったけれど、苗字を付けることは義務であるという法律が出来たからです。
これによって「じゃ、結婚した後はどうなんの?」という議論が巻き起こった時に、嫁は基本的に他の家から来た人なのにその家の人物だと名乗るのはおかしい」、当時の明治天皇の皇后を例に出し「皇后は一条家の出なのに、皇族の家系を名乗るのはおかしい」などと議論が巻き起こったことから、結婚してやってきた嫁であるが血が繋がっているワケではないので生まれた家の苗字を名乗りなさい、という法律だったのです。


しかし22年後の1898年(明治31年)に夫婦は同じ苗字を名乗りなさいという法律が出されて、それ以降、夫婦同姓が基準となっています。
明治時代に変わったと言えば、名前に関しては昔は子供の頃の幼名、そして成人(元服)したあとの名前と二つもっていました。
これは中国から来た考えです。
中国では子供が産まれた時に、お宮参りのような儀式で、祖先の霊を祀った廟屋(びょうおく)という場所に行って子供に仮の名前を付けます。
本当の名前は悪魔に狙われやすいので仮の名を付けるという考えなのですが、その仮の名を漢字の「字」と書いて「あざな」と言います。
この文字は「宀+子」と書きますが、「宀:うかんむり」が廟屋(びょうおく)を意味して、その下に子供がいるという成り立ちの漢字なのです。
その事もあって「字」という文字には「はぐくむ・やしなう」という意味も含まれています。


成人したあとに付けられる実名のことは「諱:いみな」と呼ばれます。
これは滅多に口に出してはいけない名前、「忌み名」を指す言葉ですが、この実名である「諱:いみな」には相手の真実が含まれているので、秘密にしなければいけない、マイナンバーみたいな物だったのです。古代は諱で相手を呼ぶことが出来るのは親か主君のみとされていたそうです。


ですから子供の頃は、仮の名前「あざな」で呼んで、さらに大人になっても「諱:いみな」を晒すと、悪魔に魅入られてしまうという迷信から、さらに別の呼び名を付けたりする事があったそうです。
かなり面倒臭い話です。


女性も相手に本名を知られると魂を自由にされてしまうとか、本名を明かすときは婚姻に承諾する時のみという考えがあって別名、呼び名を使う事が多かったそうです。
その事もあって、源氏物語なども登場人物は基本的に全員、別名、通り名を使っています。
それが発展して、水商売で本名では無く別名を使うことを源氏物語から「源氏名」と呼ぶようになっています。
色々面倒臭いことがあったのを簡素化したのが明治時代の名前に関する法律だったのです。

2016年3月16日 17:20

2時のうんちく劇場

2016年3月16日  動物名の会社

88年前:1928年3月16日:キリンレモンの販売が開始。


88年も愛飲されているキリンレモンですが、発売はキリンビバレッジです。
そして、その元となった会社は「麒麟麦酒」です。
ここで言うキリンは動物園にいる首の長い動物ではなく、ビールのラベルにも描かれている古代中国での伝説上の生き物麒麟です。
鳥の王様が鳳凰なら、獣の王様が麒麟、という一番偉い想像上の生き物なのです。


麒麟麦酒さんに「なぜ伝説の生き物・麒麟を社名にしたのか?」と尋ねた所、分からない、恐らく神々しい生き物として縁起を担いで名乗ったのでは無いか」という解答でした。
その後、調べたのですが麒麟麦酒が創業した時のメンバーに倉場富三郎という方がいます。
この方、長崎のグラーバー邸で有名な実業家トーマス・グラバーの息子さんなのです。
グラバーさんと日本人女性との間に生まれ、日本人名として倉場富三郎と名乗っていた方が、麒麟麦酒の創業に関わっています。
そして長崎のグラバー邸にはビールのラベルに使われた麒麟の元になった石像があるのです。ちなみに動物園にいるキリンがキリンと呼ばれる理由は、明治時代に海外からジラフという動物が入ってきたときに「伝説の動物・麒麟に似ている」ということからキリンとなったのです。


明治時代に創業した会社は当時流行っていた「社名に動物の名前を付ける」という所から始まった会社が多くあります。
例えば歯磨きなどで有名な「ライオン」もそうで、「ライオンはとにかく歯・牙が丈夫だ」ということから、強い歯を作るための会社ということで「ライオン」となったのです。


それに対抗したワケではありませんが「タイガー魔法瓶」という会社もあります。
この社名はアジア最強の動物である虎から採ったのと、子供の頃からずっと闘病している父親の看病をしつつ苦労をしたのですがその父親が寅年生まれだった事も関係しているそうです。


アジア最強の動物は虎ではなく、ゾウであるという説もあって、タイガー魔法瓶に対抗する象印マホービンという会社もあります。
とりあえず社名の由来としては「インドなどでは神聖な動物として崇められ、普段は温厚だがイザ戦うと最強だ」とされているので付けたという事で、タイガーへの対抗意識はないとなっていますが、共に大阪が本社の魔法瓶会社なので、色々含みがあると言われています。
その対抗意識は、タイガー魔法瓶は、タイガーがカタカナ、魔法瓶が漢字なのに対し、象印マホービンは逆で、象印が漢字、マホービンがカタカナになっているという部分にも現れていると囁かれています。


明治時代には様々な動物名を付けた会社が作られましたが、他にはブルドックソースなどもそうです。

2016年3月15日 17:15

2時のうんちく劇場

2016年3月15日  ダチョウ

53年前:1963年3月15日:ダチョウ倶楽部のリーダー、肥後克広さんが誕生した日です。
ということで今日は「ダチョウ」についてのお話です。


ダチョウというとオーストラリアのイメージがありますが、アフリカなどにも棲息しています。
そのため旧約聖書にもダチョウは登場します。
その中では「神がダチョウには知恵を与えずに分別も分け与えなかった」と書かれていて、愚かな動物の代表のように書かれています。
それ故に聖書の中ではダチョウは食べちゃダメという事になっています。


しかし実際にはアフリカのダチョウは食用として乱獲され、猛獣にも襲われ絶滅寸前となっています。
それに対してオーストラリアにいるダチョウは人間に食べ尽くされる事も、天敵もいなかったことで生きながらえています。


ダチョウが愚かな動物だと言われた理由に「敵に追い詰められた時に頭を砂地などに突っ込んで、隠れたつもりになる」というモノがあります。
これは心理学用語にもなっていて、(ostrich syndrome:オストリッチシンドローム)ダチョウ症候群という「目の前にある問題点を直視せず、何もせずにやり過ごそうとする現実逃避」の名前になっています。
そのように思われていたのですが、実際にはダチョウは敵が近づいてくるのを地面に頭を突っ込んで足音を聞いているというのが本当の理由だったそうです。


そしてダチョウは本当はキック力もくちばしで突く力も強いのですが、走って逃げるという進化を遂げました。そのスピードは時速80キロにもなるそうで、しかも時速80キロのまま1時間近く走り続ける事が出来るそうです。
広いオーストラリアの平原をどこまでも逃げていく事が出来るのです。


ダチョウというと卵がデカイというのも有名ですが、平均で直径12cmで12人前のオムレツが作れるなんて事がよく言われます。
実はダチョウという鳥は集団生活をしていて、1羽のダチョウが卵を産むと2番目3番目に卵を産んだダチョウはその最初のダチョウに卵を委ねます。
1羽が代表して卵を温め、他のダチョウは外敵から供えて周囲に配置されるそうです。
最高で40個ほどの卵を一気に温め、孵化させていくワケですが、ダチョウは卵の表面にある微妙な模様を覚えていて、自分がどの卵を産んだのかは解っているそうです。


ちなみにダチョウ倶楽部といえば、数々のギャグが有名ですが「ムッシュムラムラ」は1960年代のコメディアン関敬六さんのギャグをそのまま使ったもの、帽子を床にたたきつけるのも同じく1960年代になべおさみサンが映画監督コントをやっていた時のマネです。
なべおさみさんの演じた帽子を叩きつける映画監督は、渡辺邦男という三島市出身の映画監督のパロディでしたので、パロディのパクリという事になります。
そして去年、クルリンパと帽子を元に戻すのは「80年代に学生服のCMでやっていたのをパクリました」と白状していました。

2016年3月14日 17:01

2時のうんちく劇場

2016年3月14日  コケシ

89年前:1927年3月14日:アメリカの親日家・シドニー・ギューリックが日本に贈呈した青い目の人形が日本にやってきて大ブームを巻き起こしました。
そして同時期に童謡で「青い眼の人形」という曲もヒットしました。
「♪青い目をしたお人形は、アメリカ生まれのセルロイド♪」


このセルロイドの人形はおままごと遊びで人気者になったのですが、これによって被害を被ったのは、それ以前女の子たちがおままごとに使っていたコケシです。
これによってアッという間に子供達の遊び道具として忘れ去られてしまいます。


コケシというのは、江戸時代が終わる50年ほど前、文化文政年間に宮城県の遠刈田(とおがった)温泉で作られた温泉地のお土産ものが元祖で、その後、温泉地のお土産物として各地で作られるようになった物です。
ですから最初から観光用の民芸品で、それを子供達がオモチャにしていたのです。


このコケシに関して怖い話を聞いた事がある方も多いかもしれません。東北などの農村では、貧しさ故に子供を育てる事が出来ずに、子供を殺めてしまい、その供養としてコケシを作り祀った。
それ故にコケシの名前は漢字で書くと「子供を消す」で「子消し」だと。これ結構ちまたで語られている話ですが、完全にウソです。


まずコケシは元々、木で出来た子供で「キボコ」とか、小さい人形という意味で芥子の実のような人形「ケシ人形」など地域によって呼び名が違っていたものを、昭和10年頃に趣味でコレクションしているサークルで名前を統一しようという事で「小さなケシ人形」コケシになったものです。
ですから、「子供を消す」という由来はどこにも無いのです。


じゃ、どこからそんな話が出てきたのかというと、古い文献を調べていくともっとも古いものが昭和40年のものです。
作家の松永伍一さんという方が、「昔々貧しい農家で....」という創作童話を書いた時に、最後に「子供を消すと書いてコケシと名付けたのです」と書いた事が最初です。
別に松永伍一さんはウソを広めるために書いたワケでは無かったのですが、この創作童話がよく出来ていたことから、いつの間にか真実のように語られてしまったのです。
この昭和40年以前の文献をいくら調べても「子供を消す」という話は出てきません。
この件に関して、東北民芸資料館の方とメールのやり取りをした事があるのですが、このガセによって東北のコケシ生産者がかなり被害を受けているみたいなので、困っているそうです。


ちなみに、コケシを趣味で集めるサークルの中に、今とんでもなく大きくなった組織があります。
「こけし千体・趣味蒐集の会」というサークルが各地のコケシをカタログ販売して、ついでに他の物も販売していき、そのサークル名を略して「千趣会」となっています。

2016年3月10日 10:24

2時のうんちく劇場

2016年3月10日  藤子不二雄A

82年前:1934年3月10日:漫画家の藤子不二雄Aさんの誕生日です。
藤子不二雄Aさん、本名は我孫子さんで、「笑ゥせぇるすまん」や「怪物くん」など、ちょっとブラックな話が得意なのが藤子不二雄Aさんです。


我孫子さんと藤本さんは富山県の小学校で知りあい、お互い漫画を書くのが好きだという事で意気投合して、合作漫画を書き始めます。
我孫子さんは高校を卒業後、2年ほど新聞社に勤めているのですが、藤本さんはプロを目指して漫画を書き続けていました。
その間も合作を続けており、藤本さんの「プロとしてやっていける見通しが立った」という言葉に押され、新聞社を辞めて二人で東京へ出てきました。


上京したその日、手塚治虫さんに挨拶に行ったのですが、当時手塚さんは月刊誌10本を抱えて〆切に追われていたので2人が手伝う事になり、そこから3日間泊まり込みで手伝ったそうです。
当時まだ漫画家は一人で全部描くというのが当たり前だった事もあって、漫画家のアシスタントは藤子不二雄から始まったとされています。


最初、東京で下宿した部屋がたった2畳の部屋で、この2畳の部屋に2人で住んで、仕事をしていました。
机を入れて書いていると背中に壁があるので途中で寝転がってサボる事も出来ない部屋で、夜は机を廊下に出して他になにも家具のない部屋で寝ていたそうです。
その後、伝説のトキワ荘の手塚治虫さんが使っていた部屋が空くということで、そのまま手塚さんが敷金などを払ってくれて住むことになったそうで、その部屋は四畳半だったので2人で「倍以上に出世した」「疲れた時に横になれる」と大はしゃぎだったそうです。


藤子不二雄は2人で合作という事になっていましたが、実際には最初の8年ぐらいまでで、60年代前半に書いていた「オバケのQ太郎」が最後の合作でした。それ以降1965年頃から藤本さんが「パーマン」「ウメ星デンカ」、我孫子さんが「忍者ハットリ君」「怪物くん」と別々に作品を書くようになっています。それから20年以上その状態を続け、1987年にコンビを解消して名前にFとAを付けるようになりました。


「ドラえもん」をずっと書き続けた藤本さんは、あくまでも子供が楽しめる作品という事で漫画の中に自分の趣味はあまり持ち込みませんでしたが、我孫子さんは逆に自分の興味のある物しか書きたくないという性格で、ゴルフにハマってしまった時にゴルフ漫画を書きたいと言い出します。
ところがその時点でゴルフはまだ金持ちのスポーツで一般的でなく、しかも少年雑誌で連載したいといいだしたので、編集部と大もめになったそうです。
それでも我を押し通し賞金稼ぎの野生児というキャラクターで、おそらく世界初のゴルフ漫画「プロゴルファー猿」という作品が出来上がったのです。


我孫子さんのお父さんはお寺の住職だったという関係で、子供の頃から精進料理を食べていて肉料理がほとんど受け付けない体質だったそうです。
東京に出てきた時に、手塚治虫さんが奮発して分厚いステーキをおごってくれた時は食べられないと言えずに無理して食べ、その夜は一晩中胃もたれに苦しんだそうです。
別の時はそれまで食べた事がないウナギをおごって貰ったのですが、この時は食べた瞬間に大量に鼻血を吹き出したそうです。

2016年3月 9日 10:19

2時のうんちく劇場

2016年3月9日  孔子


2495年前:紀元前479年3月9日:中国の偉大な思想家・孔子が73歳で亡くなった日です。(紀元前552年10月9日生まれ)


孔子といえば歴史の中ではどんな人か分からなくても、とりあえず「論語」を書いた人という事ぐらいは出てきます。
実は孔子は「論語」を書いていません。
孔子はもともと魯(ろ)という国の下級武士の家に生まれ、子供の頃に両親とも亡くなっています。
そんな中で学問で身を立てることを決意します。


苦学の末、43歳の頃に司法大臣にまで上り詰めますが、時代は戦乱の世になっていき学問は理想でしか無いと言われたことで、政治に見切りをつけ教養こそが大切だと哲学的な生活を始めます。
その末に、戦争に疲れた人々の心を掴んでいくのです。
孔子は古典文学などをまとめたり、歴史書の編纂をしています。


そして73歳で亡くなった後、残された弟子達が孔子の残した言葉をまとめたのが「論語」なのです。
その中に孔子の略歴も書かれていて、若い頃に古代中国の哲学者「老子」に学んだという事になっていますが、そもそも「老子」という哲学者が実在した人物なのかすら不明で、孔子は自分がいかに凄いかという事の自慢のために嘘を言っていたのではないかとされています。


「論語」の中には孔子の生活に関しても様々な事が描かれています。食生活に関しては、まず穀物に関しては玄米は絶対にダメ、とにかく真っ白になるまで脱穀してある方が好きだ。
白くなくちゃダメだ。さらにニオイが悪い物は食べない。
調理に関しては材料の切り方が悪ければ箸をつけない、味付けが悪いのはもっての他となっています。
これらはすべて健康の為らしく、間食はしない、食事中は話をしない、とも書いています。


酒に関してはいくら飲んでもいいが、それで乱れるようならもう飲まないと書いています。
でも自家製の酒以外は不潔なので持ってきた酒は飲まないとも書いています。
孔子は「料理が下手という理由で離婚を申しつけた」とグルメッぷりの末に書いていますが、論語以外の資料によると、食にうるさすぎる孔子に愛想を尽かして奥さんが出ていったのではないかと考えられています。


孔子が語った事を弟子がまとめたと言っても「論語」が書物として成立したのは、孔子が亡くなってから150年も経っての事なので、実際に孔子が語ったことなのか不明な点は多いそうです。


中国の学問の基礎を作ったとされる孔子ですが、中国には「孔子家系図研究センター」という場所があって、長年にわたって孔子の家系図を調査しています。そのセンターによると、現在、孔子の子孫の本流は82代目に当たるそうで、全世界に孔子の子孫は300万人いるとされています。
自称「孔子の子孫は中国には400万人以上いるらしいです。


とりあえす2005年、ギネスブックに「世界一長い家系図」として孔子の家系図が登録されています。
孔子の墓も、子孫とされる人々が周囲に墓を造ったことで、現在その墓、孔林(こうりん)と呼ばれる場所は高さ4mの壁が5km以上ぐるっと囲んだ2平方キロの墓所で、約10万人の巨大墓地になっています。