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2015年11月

2015年11月30日 10:22

愛情運転パトロール

11月30日(月) 車内のモノが 危険につながる

クルマを走らせていると、
サッカーボールが転がってきたので    
とっさに急ブレーキをかけた。


幸い 子どもの飛び出しはなかったのだが
シートの上においていた荷物が 
一斉に床に滑り落ちた。


その時 妻の顔が浮かんだ。
ふだんから クルマの中を
片付けるように言われていたからだ。
   
たしかに 車内には 
いつも不要なものがいっぱい散らばっていた。
そのひとつ 小さなお菓子の空き箱が
急ブレーキで 
運転席にも転がり落ちてきた。


もしこれが 
ブレーキペダルの間に挟まったりしたら
ブレーキがしっかり踏めなくなって
しまったかもしれなかった。


車内のモノが 
危険につながることもある
今日は この言葉を
愛情運転の愛・言葉としておくります。
    

≪今日の一曲≫
THIS MOMENT IS MINE
/シャンテ ムーア

2015年11月30日 09:51

2時のうんちく劇場

2015年11月30日  林家三平 一家

90年前:1925年11月30日:落語家の林家三平が誕生した日です。


普通、落語家は徐々に名前を変えて大看板になりますが、林家三平さんはデビューから真打ちになって亡くなるまで「林家三平」を名乗り続けたという珍しい方です。
☆林家三平さんは1946年、終戦の翌年に21歳で落語家デビューしています。
父親の7代目・林家正蔵さんの弟子として入ったのですが、3年後に林家正蔵さんが亡くなったことで、先日お亡くなりになった橘家圓蔵さん(当時の名前は月の家圓鏡さん)門下に入ります。
その後、テレビというものが登場して、アドリブの利く落語家として大スターになっていきます。


その人気は凄くて、1971年に立川談志さんが参院選に立候補した時、街頭演説はチラホラとしか人が集まらなかったのですが、三平さんは応援演説に来ると告知をした時は警察官も出動するぐらいのパニックになってしまったそうです。
そこで三平さんも「ど〜もすみません林家三平です、え〜林家三平が、林家三平がやって参りました」といつも通りの挨拶をして大爆笑を誘ったのですが、選挙では『林家三平』と書かれた無効票がかなりの枚数あったとも言われています。
そして、その時立川談志さんは最下位落選しています。


三平さんの代表的なギャグに、頭に握り拳をあてて「ど〜もすみません」というのがありますが、それを息子の正蔵さんがやると「親父のギャグをパクった」なとど他の芸人さんから突っ込みが入る事もあります。
が、実はこのフレーズ元々は三平さんの父親7代目林家正蔵さんが考案したギャグなので、一家相伝のネタで現在の正蔵さんが使っても大丈夫なのです。


林家三平さんは林家正蔵を嗣ぎたいと考えていたのですが、24歳の時に父が亡くなり、若すぎると言う事で、蝶花楼馬楽(ちょうかろう・ばらく)が8代目・林家正蔵を名乗ることとなりました。
それでも三平さんは名を嗣ぐことを悲願としていましたが、1980年に54歳という若さで亡くなってしまいます。
実は8代目も、どのタイミングで三平さんに正蔵の名を渡そうと考えていたのですが間に合わなかったのです。
その事から三平さんが亡くなった8日後に「この名はご子息が継ぐべきです」と名前を返上し、自らは「林家彦六」と名乗っています。
それから25年後の2005年に長男(こぶ平)が9代目の林家正蔵を嗣いでいます。


その息子のこぶ平という名前は、まだ中学生ぐらいから落語の稽古を付けて貰っていた時に、三平さんが息子だからと容赦なく拳骨で殴っていて、それを見た8歳年下の次男一平くんが「お兄ちゃんはいつもコブだらけだね」と言ったことから「こぶ平」という名前が付けられたそうです。
そのこぶ平さんは、17歳の時に三平さんが亡くなった事もあり、よその空気を吸ってこいと色々な所を渡り歩くのですが、22歳の時に、舞台演出家の喰始(たべ・はじめ)さんの家に居候をしていて、1984年、WAHAHA本舗の旗揚げメンバーとしてステージに立っています。
その旗揚げ公演をこぶ平さんのお母さん香葉子さんがこっそり見に来ていたのですが、舞台が終わった後「林家一門は下ネタ禁止です!三平の名を汚すことは許しません」と激怒してこぶ平さんを脱退させた、なんてエピソードもあります。

2015年11月27日 17:20

愛情運転パトロール

11月27日(金) 高齢者の方の運転は 見習う点

最近物入りで
クルマのガソリン代も 
けっこうかかるんだよね。

そんなことを 友人が言っていました。 
たしかに 
レシートとして数字で突きつけられると、
家計の心配も現実的ですよね。 


そんな時 その負担増を 
エコドライブでカバーするのも 
ひとつの方法です。
たとえば 発進時 
急発進をやめてゆるやかにスタートする。
これが 燃費にいいんです。
さらに高速道路でも 
ゆったりと80キロ走行。
これも燃費がいいといわれています。


考えてみるとこれを実践している方がいます。
それは高齢者の方ですよね。
そして いいことは 
エコだけでなく安全運転でもあること。

人生の先輩 高齢者の方の運転は 
見習う点も多いのです。
参考になりますよね。


≪今日の一曲≫
ハロー/ライオネル・リッチー

2015年11月26日 17:05

2時のうんちく劇場

11月26日  女優・原節子


昨日、大年の大女優・原節子さんが9月5日に亡くなっていたというニュースは報じられました。その事で本日は原節子さんについて語らせてもらいたいと思います。


原節子さんは1920年(大正9)6月17日に誕生していますが、噂では母方の祖父がドイツ人だったと囁かれています。
小学生時代は目がとにかく大きく、目頭から目尻まで5センチもあるということで「5センチ眼(がん)」と渾名を付けられたそうです。


15歳の時に映画デビューしているのですが、この映画のロケ初日、遠くから相手役に声を掛けるという場面を撮影する直前、いきなり監督に「私は、彼と何度ぐらい会っている間柄なのでしょうか?」と人物の細かい設定を質問し始めた事に周囲が驚いてしまったという。


16歳の時に来日したドイツ人監督アーノルド・ファンクが撮影所でたまたま見かけた原節子さんの美貌に惹かれて自分の映画に出て欲しいと懇願し、「彼女はドイツでも人気が出る」と太鼓判を押したそうです。
この時に作られた「新しい土」という映画はドイツでも大ヒットして、まだ16歳だった日本人女優・原節子はドイツでもアイドル的人気を得ていきます。
その後、戦争をはさんで彼女は大女優の道を歩んでいくのですが、人気とは別に映画関係者からは「彼女は見た目はいいが演技は大根だから」と評価は高くありませんでした。
しかし、小津安二郎監督だけは「君たちは彼女の美貌に目がくらんで、演技力の素晴らしさが見えていない」と反論し、1949年「晩春」という映画に出演させたのをキッカケに、多くの作品に起用していくこととなります。そこから原節子は演技派の女優としての評価が高まっていき、他の監督達も映画で重要な役を与えていくようになるのです。


その中で、それまでゴシップ的な話題がなかった原節子さんと、17歳年上の小津安二郎監督との関係が囁かれ始めます。
実は小津監督は異常なほどの照れ屋で、昔から女性に気持ちを上手に告げる事が出来ないシャイな人柄で、映画の中でもそのような場面は描けないと生前に語っていた事もあって、恋愛の影も周囲に見せていませんでした。


しかし二人が出逢ってから14年後の1963年12月12日、小津監督は亡くなってしまいます。
原節子さんはその通夜に杉村春子さんに連れられてやってきたのですが、尋常ではないほど動揺し、声を上げて泣きじゃくっていたそうです。
そして、その通夜に出席したのを最後に表舞台から姿を消して女優として事実上引退してしまいます。


おそらく今回の原節子さん死去のニュースではこの「小津監督の通夜が人前に出てきた最後」と語られると思いますが、実際にはその五年後、1968年(昭和43)に亡くなった脚本家・野田高梧さんの葬儀に参列しています。
野田高梧さんは原節子さんが出演した小津作品すべての脚本を書いていた方です。
近年は鎌倉で親戚の方とひっそりと穏やかに暮らしているという噂だけで、一切マスコミにも登場せずに暮らしていました。

2015年11月26日 17:03

愛情運転パトロール

11月26日(木) 交通安全のために 声を掛け合おう

強い眠気に襲われながら、
クルマを運転して目的地についた時、
今走ってきた道中のことを 
まったく覚えていない。
そんな経験 ありませんか?


クルマに乗ることの多い知り合いは、
あまりの眠気に 
信号待ちで寝てしまったことさえあるそうです。
   

また ある時は 
料金所で寝ぼけて 
高速道路のチケットの代わりに名刺を出して 
係りの人に笑われたこともあるとか。


その時には やさしい係りの人が
「 仮眠をとったほうがいいですよ 」 
と言ってくれたそうです。
   

ドライバーは 
とかく居眠り運転は 軽く考えがち。
だからこそ 
まわりが 仮眠をとることを進めるなど 
声をかけてほしいのです
   

お互いの交通安全のために 
声を掛け合おう
今日は この言葉を
愛情運転の愛・言葉としておくります。


≪今日の一曲≫
ドント ウォーリー/アップルトン

2015年11月25日 17:15

愛情運転パトロール

11月25日(水) 上手な運転より安全運転

ドラマを見てて 
この人は演技が上手だなと思う時がある。
     

一方で 演技を感じさせないのが 
うまい役者なのだ。
・・・と いう話もあって 
どういうことだろうかと理解できずにいた。
   

そんなある日、クラシックコンサートで 
世界的な超絶テクニックの
ピアニストに出会った。
でも 聴いていてなにか違うと思った。
そうか ぼくは今 
音楽を楽しんでいるのではなく
演奏の技術に感心しているんだと気がついた。
以来 熱演に対する考えが変わった。


やっぱりボクは 
物語や音楽を楽しみたいのだと。


運転のうまいドライバーっていますよね。
でも クルマの運転も 
本当は 同乗者が
安心して景色や会話を楽しめる運転の方が
いいのではないかと思うのです。
   

クルマに乗せてもらうなら 
上手な運転より安全運転。
今日は この言葉を
愛情運転の愛・言葉としておくります。


≪今日の一曲≫
ビーイング ウィズ ユー/スモーキー ロビンソン

2015年11月25日 16:42

2時のうんちく劇場

2015年11月25日  ベンツ

1844年11月25日:ドイツに自動車メーカーとして有名になるカール・ベンツさんが誕生しています。


ベンツさんは生まれた時、お父さんとお母さんは正式な結婚をしていなかった事から、母親の名字をとってカール・フリードリッヒ・ミヒャエル・ファイラントという名前でした。
その後、両親は結婚できたのですが、2歳の時にお父さんが鉄道事故で亡くなってしまったことから、そこでお父さんの名字を嗣いでカール・ベンツという名前になっています。


ベンツは母一人の貧しい家庭ながらも神童と呼ばれるような成績を残し、15歳の時に飛び級で大学の機械工学科に入学しています。
2歳の時に亡くなったお父さんは蒸気機関車の運転手だった事からベンツは鉄道関係の仕事に就きたいと考え、大学卒業後は機械部品会社に就職して、後に独立して会社経営を始めます。
そんなタイミングで知り合ったのがベルタ・リンガーという裕福な家庭の令嬢で、ベンツの情熱に共感し結婚をする事になったのですが、その時に父親から持参金として大金を出資してもらい機械工作所を創設します。


その当時、それまでの蒸気機関より小型でパワーが出るガソリンを使った動力が注目を浴びた事から、ベンツもそっちへ研究対象を移し2サイクルエンジンを完成させます。
ところがベンツは研究者にありがちな口べたで上手にセールスが出来ない人だったのです。
そこで元々社交界で鍛えていた奥さんのベルタが製品をアピールして、スポンサーを見つけてきてベンツを有名人に仕立て上げて行きます。


1885年に4サイクルエンジンを完成させるのですが、まだ世間では「自動車なんて金の掛かるオモチャだろ、実用的では無い」と思われていました。
1886年に特許を取り、宣伝のための展示会を開いたのですが、客は物珍しいモノを見に来ただけで誰一人として契約をしてくれず、ベンツも「こんなに頑張っても誰も認めてくれない」ともう自動車なんかの開発は辞めると宣言してしまいます。


ところが奥さんのベルタはそんな中、ベンツに相談もせずに4サイクルエンジンの自動車を勝手に持ち出し、子供二人を乗せて104キロ離れた実家に帰るという大冒険をしています。
ベンツが目を覚ます奥さんと子供がいなくて、さらに自動車も無く、テーブルの上には「息子と一緒に実家に行ってきます」と1枚のメモが残されていたそうです。
104キロ先の実家にまで12時間以上かけて(時速8.6km)帰ったベルタだったのですが、その間、沿道には見物人が集まり、大歓声を上げ、一気にベンツの自動車の名声が高まりました。
この冒険の際にベルタはブレーキやギアの改良点を見つけています。ベンツはその改良を果たした所で自動車生産工場をスタートさせ、1888年、世界初の自動車会社が誕生したのです。
現在、ドイツにはベルタが実家まで走った道路が観光名所「ベルタ・ベンツ・メモリアルルート」として整備されています。

2015年11月24日 16:35

2時のうんちく劇場

2015年11月24日  和食 味の素

和食というのは素材の味を活かした繊細な味が特徴なのですが、その味を活かすために出汁というものが使われ、さらに料理によって昆布・鰹節・干し椎茸などを使い分けるという考え方は、かなり特殊な食文化です。
最近はその出汁も科学的に研究されていて、例えば昆布の旨味はグルタミン酸、かつお節の旨味はイノシン酸、干し椎茸の旨味はグアニル酸、とその成分がちゃんと判明しています。
その研究を一番最初にやったのが、東京帝国大学理学部化学科教授の池田菊苗(いけだきくなえ)博士です。
池田博士は家で"湯豆腐"を食べた折、なぜ"湯豆腐"がおいしいのかに興味を持ち、研究の結果、そのおいしさの成分が、昆布のうまみ成分である"グルタミン酸"である事を発見しました。
味の素は池田菊苗博士より事業経営を委任され、グルタミン酸を主成分とする調味料を「味の素」と命名し、その製造販売を行う事で大きな発展を遂げました。


この出汁の味を「うま味」と名付けていますが、他の国には存在しない概念だった事から、海外でもうま味という名前は「UMAMI」とそのまま使われています。
和食はご飯という主食があっておかずが出てくるという考え方ですが、西洋ではメインになる料理がとにかくあれば良いという考えです。
それにパンが付く場合もありますが。
そのために日本語の「主食」という単語を表す英語が存在しません。
主の食を直訳するとメインディッシュですが、メインディッシュがご飯とは言いませんので、特殊な食事体系なのです。


さらに日本の食卓が西洋と違う最大の様式は、家庭内で自分が使う食器が決まっているということです。
一般的な家庭ではお茶碗や湯飲み、箸などは誰が使うかが決まっていますが、西洋ではそのような考え方はほとんどなく、食器は家族共有です。ですから夫婦茶碗みたいな女性と男性の食器のサイズが違っているのは日本だけです。実はこの考え方はすでに平安時代からあったみたいで、平城京跡から出土された土器の裏側に使用者の名前が書かれていたものや、「他人は使わないように」と注意書きが書かれた物があったそうです。


これに関して色々な説がありますが、昔から日本人は食事の時に大きなテーブルではなく、ひとりひとりのお膳の上に食事を並べて食べることから、個人的な空間を大切にするという考えが芽生えて、そこから個人の趣味に合った食事空間を演出するために、専用食器が誕生したのではと考えられています。
つまり食事はただ単に空腹を満たす行為ではなく、その中に美意識を反映させて来たのが日本人なのです。


その食器ですが、西洋の食器セットは基本的に6枚ですが、和食器は5枚セットという事が多い。
西洋の場合、古くから12進法を使っていた歴史があったのですが、12枚セットでは多いということで6枚セットに落ち着いたみたいです。
それに対して日本は古くから割り切れる偶数を嫌っていた文化があるので、6枚は最初から考えの中にありません。
そしてて4枚では死に繋がることからもっとも嫌っていました。その中で3枚では少なすぎるということで5枚セットに落ち着いたみたいです。
これは客を迎える主人側に2枚、招かれる客に2枚、そして1枚が予備と考えているそうです。


和食は調理も繊細ですが、それ以外の部分にも独自の文化が反映されている美意識の文化なのです。

2015年11月24日 16:33

愛情運転パトロール

11月24日(火)クルマのコンディション

風が吹くと 桶屋がもうかる。
そんな言葉がありますよね。
 

ひとつの出来事が 思わぬモノやところに及び
発展するという例えです。


今日は これを
クルマに置き換えて考えてみましょう。
たとえば クルマがこわれると、
デートや仕事に遅れる。
約束の時間に遅れる。
恋人に振られる、仕事がなくなる。
渋滞が起きる。


実際に 渋滞の先に故障車あり、
・・・よく見かける光景ですよね。
さらに 運悪く救急車が通りかかったら
命にかかわることになってしまうかもしれません。
   
安全運転というと 
運転技術というイメージですが
クルマのコンディションも
安全運転に大きく影響するんですね。


そこでひとこと。
安全なドライブは 安全なクルマから、
今日は この言葉を
愛情運転の愛・言葉としておくります。


≪今日の一曲≫

YOU MAKE ME SMILE/レジーナ ベル