
126年前、1886年02月20日:岩手県に詩人の石川啄木が生まれました。
(1910『一握の砂』没後『悲しき玩具』)
石川啄木はもともと岩手県生まれですが、
数学の試験でカンニングをした事がバレ、それがきっかけで中学を退学し、
地元にいるのも嫌になって上京する事になったのです。
石川啄木の本名は石川一で、最初は白い蘋(うきくさ)と書く
「白蘋(はくひん)」というペンネームでプロ詩人を目指したのですが、
師匠だった与謝野鉄幹に「君に白蘋なんて高級な名前は似合わない」
と意見され、その時に書いていた「啄木鳥(きつつき)」という作品から
「君は啄木と名乗りたまえ」と命名され石川啄木となった。
啄木は与謝野鉄幹の主宰する会で短歌の添削を担当していました。
そこに「24歳独身・平山良子」と書かれた短歌が送られてきた時に
「あなたの短歌は素晴らしい、もっと深く教えたい、
そのために写真を送って欲しい」と、啄木は結婚していたのですが、
立場を利用して素人さんに手を出すという行動に走ります。
その後、綺麗な女性の写真が送られて来たので
ノリノリで何通も手紙を送ったそうですが、実はその平山良子さんは
本名平山良太郎という男性という事が後に判明します。
と言うのも元々啄木の添削が女性に対して熱心だったので、
女性名で送れば丁寧に添削して貰えると思ったのがキッカケだそうです。
ですから騙したという理由も含めて全部啄木の身から出た錆なのです。
石川啄木は日記を書いていたのですが、ワザワザ
読みにくいローマ字表記で日記を書いていたのは、
奥さんにその内容を読まれないようにという理由でした。
その日記には「妻・節子の事を本当に愛している。
それとは別に他の女性と寝たいと思った。そして寝た。節子に不満は無い。」
と書いて、別の女性とベッドの中で何をしたかまでを
事細かに書き残しています。奥さんに読まれないと思って
ローマ字で書いていたのですが、実は残念なことに妻の節子さんは
ローマ字を読むことが出来たそうです。さらに当時、
啄木は新聞社に勤務していたのですが日記の中に
「会社に行くのが嫌だ、乳首を切り取れば1ヶ月ぐらい会社を休めるだろう
とカミソリを自分の乳首に当てた」と書いています。
結果は痛くて断念したそうです。この日記に関して
「俺が死んだら日記は焼き捨ててくれ」と言い残しているのですが。
友人だった言語学者の金田一京助さんは
「という遺言を残すってのは読まれる事を前提に書いているのだろうな」
と保存をして、現在はその全文が出版されていて、
このように内容がラジオで放送されているワケです。
残した詩は素朴で良い物があるのですが、これらのエピソードで
「残念」と思うか「親近感を覚えた」と取るか、
色々意見の別れる処だと思います。