興津と戦争(戦前)

「ワシントンの桜」の祖

満開になった「ワシントンの桜」。熊谷八十三たちが育苗した桜の下には世界中の花見客が集う=11日、ワシントン・ポトマック湖畔(時事)

日本の心意気 米国歓喜

 日本から届いた友好の桜の苗木に驚嘆の声が上がった。「アンビリーバブル(信じられない)」

 1912(明治45)年3月13日、静岡市清水区の興津の地から遠くワシントンに到着した3千本の苗木は、米国人を歓喜に包んだ。輸入植物に行われる植物防疫で、病害虫はどこからも確認されなかった。当時の技術水準では奇跡に近かった。

 JR興津駅の北隣にある農研機構果樹研究所カンキツ研究興津拠点。当時、農事試験場園芸部だった施設には、「ワシントンの桜誕生の地」と刻まれた石碑が建っている。育苗担当の農業技師熊谷八十三らをたたえ、苗木発送80周年を記念して23年前に設置された。碑文はこう結んでいる。「我が国の当時の園芸研究者の心意気を示した」…と。

【メモ】ワシントンの桜
1912(明治45)年、東京市が米国のタフト大統領夫妻の要請に応えて寄贈した日米友好の象徴。ポトマック湖畔の桜として世界的に知られる。同市は当初、日露戦争終結を仲介した米国への感謝も兼ねて苗木200本を贈った。ところが、病害虫が確認され、全て焼却処分に。直ちに2度目の寄贈を決め、国内で数少ない園芸研究施設だった農事試験場園芸部に苗木栽培を依頼した。同湖畔の桜は熊谷八十三らが育てた苗木やその子孫。米国は太平洋戦争中も「日本の桜」を「東洋の桜」と呼び変えて保護した。

「ワシントンの桜」の苗木を栽培した熊谷八十三。興津とともに数奇な人生を歩んだ=1941年12月7日(熊谷真太郎さん提供)
完璧な苗木へ命懸け

熊谷が育苗した薄寒桜。現在は枯れている(1998年撮影)

 熊谷は日本の名誉を双肩に担っていた。「文字通りの命懸け。現代でも困難なのに、明治末期にこれほどの結果を残したとは」。同研究拠点で半世紀近くかんきつ開発に携わった元職員木原武士さん(74)=同区興津中町=は舌を巻く。

 米国に贈る苗木には完璧が求められた。まずは品種の選定と台木作り。東京・荒川堤にある59種もの桜の芽を切り取り、土がきれいな兵庫県東野村(現伊丹市)に自生するヤマザクラを台木に接ぎ木した。日本で人気のしだれ桜は西洋人には陰気に映るため外し、最終的にソメイヨシノや一葉、関山など12種に絞り込むなど、細かな配慮をした。

 最大の難関は病害虫駆除だった。熊谷はここで危険な手法を用いた。青酸ガスくん蒸。当時、試験導入されたばかりで、誤ってガスを吸い込めば、自身や周りにいる者も命を落としかねない。戦後しばらくは果樹栽培などで普及したが、国内では現在、設備の整った業者以外、ほとんど用いられていない。青酸ガスはナチスのホロコースト、オウム真理教(現アレフ)の新宿駅テロ未遂事件で使われた猛毒である。

 危険を顧みずに責務を果たした熊谷を、同研究拠点領域長の高梨祐明農学博士(54)はたたえる。「私たちの大先輩にこんなに素晴らしい人物がいた。この誇りをいつまでも受け継ぎたい」

農業技師とは別の道へ

 桜を受け取った米国は、その感激をいつまでも忘れなかった。後年、太平洋戦争が起き、敵国関係になってもずっと。次第に暗い時代へと向かう中で、熊谷は何を思っていたのだろう。その生涯をたどると、驚くべき事実に出くわした。

 熊谷は、興津の地で戦争回避に奔走した最後の元老・西園寺公望の執事として、農業技師とは全く別の人生を歩んでいた。

ワシントンの桜80年記念に建てられた碑(手前)