興津と戦争(戦中)

「宝塚」に苦難の日々

宝塚歌劇団での思い出を語る高山靖子さん。戦時中、初舞台を踏む夢はかなわなかった=4月28日、静岡市清水区

劇場接収消えた初舞台

 テーブル一面に広げた自身のブロマイド写真や雑誌、新聞の切り抜き。「当時の私はのんきというのか。初舞台がお預けになったのに、戦時中だから仕方ないと思っていた」。思い出話に花を咲かせる高山靖子さん(86)=静岡市清水区興津中町=には芸名がある。浦安伸子。宝塚歌劇団団員時代、高山さんはこの名前で1944(昭和19)年にデビューするはずだった。

 戦時中の苦難を物語る世代が同歌劇団にいる。同年と翌45年に育成組織の宝塚音楽舞踊女学校(現宝塚音楽学校)を卒業した31期生と32期生だ。高山さんも31期生の一人。同校卒業と同時に大劇場が軍部に接収され、舞台を踏めなくなった。「卒業後は挺身(ていしん)隊として航空機工場で働くしかなかった」

戦後にデビューして間もないころの自身のブロマイド写真。「浦安伸子」の芸名で活躍した(高山靖子さん提供)
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宝塚時代などを振り返る動画インタビュー

 歌劇団は当時、さまざまな規制を受けた。敵性文化のレビューやジャズは無論、有名な「すみれの花咲く頃」も原曲がシャンソンだから禁止。日本軍が活躍する戦時色の強い演目に変わり、活動も慰問中心になった。

 ただ、舞台経験のない高山さんは慰問にさえ参加できなかった。動員先の工場では旋盤作業や海軍への連絡文書を運ぶ役割を与えられ、寮に戻れば立てる見込みのない舞台のためにレッスンが続いた。絶望して退学した親友に戦後の大女優山岡久乃がいる。

 戦争末期には宝塚周辺も連日のように空襲を受け、動員先の工場も爆撃で壊滅した。生徒は解散し、高山さんは興津で終戦を迎えた。「玉音放送は雑音がひどくて聞き取れず、父は『勝った』と早合点して酒盛りする始末。やがて負けたと分かり、何も考えられなかった」。脳裏にはその日の様子が焼き付いている。

「私には今も夢の国」

 敗戦からいち早く立ち上がったのは、歌劇団の団員たちだった。進駐軍との交渉が実を結び、46年4月22日に宝塚大劇場が再開した。その華やかな舞台に「浦安伸子」もいた。進駐軍が撮影したというデビュー時の貴重なカラー映像が残っていた。「見て。チョウの格好をしているのが私」。高山さんは瞳を輝かせた。

 51年10月、静岡と清水で行われた月組公演には、興津からも大勢が詰め掛けた。3年後に退団した高山さんにとって、最初で最後の凱旋(がいせん)公演だった。

 「いろいろあったけど、精いっぱい生き抜いた。私にとって宝塚は過去も今も夢の国」

凱旋公演で踊りを披露する高山さん(左)
関連写真 (高山靖子さん提供)

凱旋公演では多くの花輪が贈られた

静岡駅にて花束の歓迎を受ける高山さん(左)

ブロマイド写真

当時の様子

凱旋公演のステージ中央で歌う高山さん(左から4人目)

ブロマイド写真