遺伝子バンク30年 三島・国立遺伝研

遺伝子バンク30年(16完)適切な整理・活用が課題(2017/7/10 11:00)
2000年代半ばから次世代シーケンシング(NGS)が普及し、90年代とは桁違いの手軽さでDNAデータを得られるようになった。それなりの研究費があれば、データも解析ソフトも手に入る時代だ。だからこそ、データをいかに適切に整理・活用できるかが重…
遺伝子バンク30年(15)大量データ時代の夜明け(2017/7/3 11:00)
1990年代後半、DNA塩基配列の解析技術が進み、日本DNAデータバンク(DDBJ)には従来のように少数の遺伝子データだけでなく、数百から数千件のデータが一括登録されるようになった。さらに、95年のインフルエンザ菌を皮切りに、個々の微生物の…
遺伝子バンク30年(14)ユーザーによる登録へ(2017/6/26 11:00)
1990年7月、日本DNAデータバンク(DDBJ)の運営は国立遺伝学研究所(遺伝研)の教授に昇任した五條堀孝に引き継がれた。減額された予算の復活を求めて、五條堀は所長の富沢純一とともに文部省に何度も足を運んだという。一方でヒトゲノム解析セン…
遺伝子バンク30年(13)共同利用の役割 意識せず(2017/6/19 11:00)
1980年代末、日本DNAデータバンク(DDBJ)を擁する国立遺伝学研究所(遺伝研)にゲノム研究の国内拠点を新設する計画があった。最終的に遺伝研側は受け入れを拒否し、DDBJは予算を大幅削減されたという。背景には他大学の動きもあったとも言わ…
遺伝子バンク30年(12)予算減で存続の危機に(2017/6/5 11:00)
1980年代末の日本DNAデータバンク(DDBJ)の状況は、順調とはいえなかった。DDBJを国立遺伝学研究所(遺伝研)に招致した丸山毅夫が87年末に急逝した。実務担当の宮沢三造には代表者としての仕事も積み重なり、疲労が限界に達しつつあった。…
遺伝子バンク30年(11)拠点の受け入れを拒否(2017/5/29 11:00)
ヒトゲノム解読に向けて世界が動き始めた1980年代末、日本でもゲノム研究のために大型の科研費が設けられた。91年度からの10カ年計画を見据えた検討が始まった。研究班は、実験技術の改良など多数の研究課題を全国の大学に振り分けた。同時に、大量の…
遺伝子バンク30年(10)ヒトゲノム計画が加速(2017/5/22 11:00)
1988年4月、ヒトゲノム国際機構が設立された。ヒトの全遺伝情報を解読しようとヒトゲノム計画に向けて世界が動き始めていた。同年5月、国立遺伝学研究所の石浜明研究室に山崎由紀子が加わった。山崎は企業や大学での研究生活を経て米国に留学していたと…
遺伝子バンク30年(9)丸山センター長が急死(2017/5/15 11:00)
1984年春の遺伝情報研究センター発足から3年近く経った86年12月、日本DNAデータバンク(DDBJ)でようやく本格的なDNAデータ入力が始まった。そして87年7月、「DDBJリリース1.0」が公開された。今からちょうど30年前、DDBJ…
遺伝子バンク30年(8)最新計算機導入に腐心(2017/5/1 11:00)
1985年12月、日本DNAデータバンク(DDBJ)に助教授として着任した宮沢三造は多くの困難に直面していた。さしあたって所内で借りられる計算機は、集団遺伝学グループが持つ中型機「FACOMM-150F」だった。当時の日本では主流の「メイン…
遺伝子バンク30年(7)人材と予算確保に苦慮(2017/4/24 11:00)
1984年、日本DNAデータバンク(DDBJ)初代責任者の丸山毅夫は、助手の五條堀孝とともにDNAデータの入力を始めた。研究所内で借りた計算機には電話回線すら接続されていなかったため、データ配布のリクエストがあると磁気テープや8インチフロッ…

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